連休が明けましたが、皆さんは三連休をいかが過ごされましたでしょうか?

わたしは9月16日に名古屋にいってきました。何をしにいったかというと、橘宗一という少年の墓前祭に出席するためです。

 

 

「橘宗一」と聞いても、知っている人は少ないでしょう。彼は近代日本のアナーキストとして有名な大杉栄の妹の子どもです。関東大震災が起きた後の1923年9月16日、伯父の大杉栄とその妻・伊藤野枝と一緒に憲兵に連行され、東京憲兵隊本部で暴行の上首を絞められて殺されました。大杉栄と伊藤野枝も同様にして殺されました。「甘粕事件」として知られています。

三人の遺体は全裸にされ、菰で包み麻縄で縛って同本部構内の廃井戸に投げ込まれました。当初、軍は隠蔽するつもりでしたが、世の中が騒ぎ始めたのと、宗一少年が米国籍を持っていたため、米国政府から照会が入り、隠し通せなくなって発覚しました。

大杉らを殺害した首謀者とされた甘粕正彦東京憲兵隊大尉らは軍法会議にかけられましたが、「国賊であり、非国民であるアナーキストの大杉栄を殺した甘粕大尉らの殺害行為は憂国の情から出た義挙であり、彼らは国士である」として、国民から多くの減刑嘆願書が集められ、甘粕大尉は懲役10年、森慶次郎曹長は懲役3年、他は全員無罪とされました。ちなみにこの事件は、甘粕らが個人的に起こした事件ではなく、軍が直接かかわってなされた計画的、組織的な犯罪であると推察されます。

ともあれ、大杉たちは墓すらもまともに建てられない情況でした。

ところが、それから49年経った1972年、偶然にも墓碑が発見されたのです。

 

 

宗一の父・惣三郎は現在の愛知県あま市出身で、1927年4月12日(宗一少年の誕生日)に名古屋・日泰寺の墓地に墓碑を建てました。墓碑の背面上部には次のように刻まれています。

「宗一(八才)ハ再渡日中東京大震災ノサイ大正十二年(一九二三年)九月十六日ノ夜、大杉栄 野枝ト共ニ犬共ニ虐殺サル」

 

 

犬共ニ虐殺サル

強い表現に父親の無念が伝わってくると同時に、当時の世相の中でこれを書いた勇気に胸を打たれます。

当局の弾圧のことや45年後にようやく発見されたことなどを考えれば、ささやかな墓碑がひっそりと建っているものとばかり思っていましたが、今回訪ねてみたら大きい堂々とした墓碑で、驚きました。

軍国主義に抵抗した証として、この墓碑を守り後世に伝えようと、ゆかりのある関係者や地元の人らが保存会を立ち上げ、毎年9月に墓前祭を開いて、第44回の墓前祭が今年開かれたわけです。

 

 

墓前祭の後、栄に移動して名古屋YWCAホール〈2F〉にて「自由な共同性を求めて―大杉栄における社会と自由」と題した講演をさせていただきました。

会場の様子です。

 

 

講演の後は質疑応答で盛り上がり、最後には大杉栄の甥の豊さんが前に出てきて話されました。そこでは嬉しい驚きが。この機会に合わせて、何と、死後に作られた大杉栄の首像が、パキスタンに住む、亡き同志の娘さんによってもたらされたのです。下の写真はその首像を掲げる大杉豊さんです。

 

 

これはその首像。横江嘉純作のブロンズ像で、小さいですが持つとズッシリと重いです。

 

 

講演会の後の懇親会では、ブロンズ像を大杉豊さんに渡された督永忠子さんとツーショット。

 

 

督永さんからは、「京都の労働者学校に17歳で入ってから、父の(丈夫さん)大杉に対する傾倒は生涯を通じて変わりませんでした。生き方は大杉栄そっくり。自由な生き方でした。飛矢﨑さんの講演を聴いて、父の生き方に確信をもつことができました」と言われました。とても嬉しく、「墓前祭にきて良かった」と思いました。

その他にも、大杉のめざした〈生の拡充〉を求めて日々戦って居られるさまざまな現場の方とも交流できました。

墓前祭から生のエネルギーをたくさんいただき、さあ、今度はわたし自身が住む場所の〈生の拡充〉の現場へ入っていこうと思います。