『雲の墓標』(17) | 樋浦明夫のブログ

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日々の出来事(家族や私的なことに触れるのは苦手なので、主としてグローバルな事)、歴史的な過去の出来事、浮世のことについて思ったこと、感じたことを思いつくままに写真や文で紹介したい。

 28日の東京15区、島根(ここだけは自民は候補)、長崎の3つの衆院補選で自民党と維新は完敗した。3選挙とも立民候補が勝利したわけだが、自民の牙城島根では投票率が過去最低にかかわらず自民は敗北した。自民大物が何度も島根に入ったが功を奏さず。首相は2回も島根に行ったが裏金問題を解決できないことに有権者は見切りをつけた格好だ。ともあれ、立民は単独で勝ったわけではないことを忘れずに謙虚に政権交代に向けて野党共闘にしっかり取り組むべきだ。

 

 6月28日の日記。飛行長による熱の入ったサイパンの戦況のはなし。新聞によると、「婦女子も完全協力。まさに元寇の壱岐」とあるが、敵の上陸兵はすでに島の大半を占領したらしい。サイパンがおちれば、テニヤン、硫黄島、大宮島(グアム)、トラック等、内南陽以北の島の基地は用をなさなくなり、敵はいっきょにフィリピンと日本本土を目指して攻め上るであろう。連合艦隊は、航空母艦大鳳、翔鶴、飛鷹の三隻の虎の子を失い、すでにこっそり逃げ帰って来ているらしい。敵の艦隊はほとんど無傷。この作戦もまた負け戦だ。こうしてはいられないという気持ちとともに、われわれの訓練も、もう間に合わないのではないかと感じる。
 

 1943年(昭和18)4月18日に日本海軍提督山本五十六が視察のためにラバウルからブインの飛行場に飛ぶ計画の暗号文が米側に解読され、長官が何時何分にどこに来るかまで把握されていた。米側は予定通りに来た長官が乗った飛行機を待ち伏せして撃墜した。その衝撃の大きさは4月18日の戦死を約1カ月後の5月21日に国民に知らされた。日本軍はミッドウェーの海戦(1942年6月)で敗け、同年8月からのガダルカナル島の争奪戦で敗け、1944年春からのインパール作戦で敗けた。1943年(昭和18)末から19年にかけてフィリピン諸島を目指すマッカーサーは大機動部隊を編成して太平洋の島々の攻撃を開始した。この大機動部隊は1944年夏にサイパン島を襲った。サイパンをやられたら米軍はそこからB29で日本本土を爆撃することは必至だったから、日本陸軍はサイパン、テニアン、グアムに難攻不落の防御体制を敷いた。

 

 5月19日の大本営政府連絡会議で東条首相は「サイパンは占領されることはない」と豪語した。ところが6月15日に米軍はサイパン上陸を開始した。水際作戦(敵が浜辺に上陸するのを見計らって攻撃すること)で敵を完璧に追い落とすと言っていたのに反してやすやすと米軍は上陸した。迎え撃つ日本軍の火砲は211門、かたや米軍のそれは2417門と話しにならない。サイパンを奪られた日本軍は、6月19日に連合艦隊が総力戦に挑んだ。結果は惨憺たる日本海軍の敗北。日本の空母三隻が撃沈された。この三隻が大鳳、翔鶴、飛鷹だった。一年がかりで養成した飛行部隊は壊滅、395機が全滅。6月20日にはサイパンはもうどうにもならないことが判明。前の「この作戦もまた敗け戦だ」というのはこのことを指している。
 

 サイパンの戦況について天皇陛下が「なんとか取り戻せないか」と陸海軍に下問(天皇が家来にする質問)した。奪還は完全に不可能という陸海軍両総長の報告に対して、天皇が元帥会議を開くことを要請し、25日に元帥会議が開かれた。そこでもはやだめだと結論が出た時に、伏見宮(ふしみのみや)が「それならば、陸海軍ともに何か特殊兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない」ともちかけた。この伏野宮の提案を受けて陸海軍は「特攻作戦」を現実的に計画し始めた。
 『雲の墓標』の大きなテーマは海軍の特攻作戦にあるので、それについてやや詳しく述べた(これについては半藤一利著『昭和史』によった)。