『雲の墓標』⑬ | 樋浦明夫のブログ

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日々の出来事(家族や私的なことに触れるのは苦手なので、主としてグローバルな事)、歴史的な過去の出来事、浮世のことについて思ったこと、感じたことを思いつくままに写真や文で紹介したい。

 5月5日の日記より。「本日操縦偵察の組み分けの発表、ならびに認知の決定があった。」こと、つまり飛行機の操縦か偵察機乗りかが決められた、とある。自分は希望どおり操縦になって愉快だと記している。全国30万の臨時徴収中より、約900名の海軍航空隊の操適で選ばれたことは光栄だとも。操適というのは、操縦に適していると判断されたことを指すのであろう。単純に30万人から900人が選ばれたとすると、0.3%の超難関である。要するに誰もが希望する飛行機を操縦するパイロット組になったということになる。戦局の帰趨を決定する大きなメカニズムの最重要部分に、歯車の一つとして組み込まれた。行く先は谷田部、美保、出水(いずみ)、の各海軍航空隊で、自分を含む600名は出水と決まった。われわれは負わされた大任を、必ず立派にはたしてみせる、と意気込みを語っている。大任というのは、敵機、敵艦を撃滅し日本を勝利に導くべく闘うということ。
 

 この日の日記には、自分(主人公の吉野)と同じく操縦組でもうすぐ鹿児島県の出水に移動する同級生藤倉の昭和19年5月の手記が載せられている。それには藤倉が大学のE先生に宛てた手記である。それには「私には、もしかしたらもうあまり長くない寿命の尽きるまでのあいだに、せめて先生にだけはうったえておきたい、真実のおもい」が綴られていた。吉野を含む友人らは、聖戦の完遂、栄えある若人の責務、帝国海軍の輝かしき伝統、八紘一宇の理想というふうなことが教官や日々の新聞やから繰り返し吹き込まれるうちに、はじめはそのことに批判的であっても、次第に多少の意味があるように感じるようになっている。だけど自分(藤倉)はいつまでたっても疑いの気持ちを捨てることが出来ず、教官から要求されるような精神の姿勢がとれず、そうかといって自分のゆくすうえをたしかに考えさだめることも出来ずに、かたくなこころを持っているのは自分だけです、と語っている。
 

 さらに、自分は素直でない、謙遜でない性質を固守しようと決心していること、この戦争はわれわれの祖国がわれわれにあたえた大使命などとおもいこまないために、そして死ぬことによって祖国がすくわれるなどとおもわないためには、よほど充分にひねくれている必要があると感じる、と恩師に訴えている。こういう若者らしい正義感、率直さを許さないのがかつての日本の軍国主義だった。拙著『映画と文学からみる戦争①』に戦没学生の手記「わだつみの声」に載っていたいくつかの手記を紹介した。理不尽な戦争で命を落とさなければならない前途有為な若者のやりきれなさ、憤懣やるかたない心の内が綴られていたのを思い出した。
 

 岸田首相は日米首脳会談で、自衛隊を米軍のIAMD(統合防空ミサイル防衛)とシームレス(切れ目なく)に統合して米軍の指揮下に入り有事に備えることを国会にも諮らずに約束してきた。これでは国賓待遇になるし、米議会での演説後にスタンディングオベーション受けるわけだ。「日本では決してこんな拍手は受けない」とうっ憤を晴らしたつもりだろうが、難局の国政をさしおいて何をしているんだといいたくなるではないか。バイデンが「日米同盟が始まって以来の最も重要なアップグレード」と称賛するのは当たり前だ。きな臭さが一段と増しただけである。