『雲の墓標』⑭ | 樋浦明夫のブログ

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日々の出来事(家族や私的なことに触れるのは苦手なので、主としてグローバルな事)、歴史的な過去の出来事、浮世のことについて思ったこと、感じたことを思いつくままに写真や文で紹介したい。

 親友藤倉 晶の手記はこの著書の中でも白眉だと思われるので続けて取り上げる。
 「私(藤倉)は特別危険な不道徳な考えを述べているとはおもわない。この程度のことを考え、言い、書きとめることに不自由と危険とをおかさねばならぬ、そういう時代から、はたして新しいよき文明が生まれるものでしょうか。はっきり申し上げますが、この戦争は日本の負けに終わるだろうと確信するようになりました。いわば十把一からげの予備学生にも、士官に準ずる資格で身を軍籍においておいているというだけで、なにがしかの機密事項らしいものが終始耳に入ってくる。すでに日本と米国との間には物資の量において想像もつかないほどの差が生じている事実。」その例として、日本はミッドウェーの海戦で航空母艦の主力をほとんど失い、ソロモン海域の空戦で、開戦当時世界一の技量を誇っていた名人気質のパイロットたちは、大方戦死してしまった、ことを挙げている。
 

 それに比してアメリカ側は、レーダーその他の化学兵器の優越を誇りながら、非常に大規模な新しい軍備を充実させつつあって、日本の防衛線は急速に後退しつつある。皮肉なことに搭乗員の生命をすくうことには、つねに全力をつくすというアメリカ海軍と、搭乗員の心得はひたすら死に就くことだと教える日本の海軍の戦力が逆転してきた。おそらく3年以内に戦争は終わるでしょう。その時、全国30万の臨時徴収の海軍学徒たちは、みんな戦争という催眠術から眼をさますでしょう、と言っている。戦争が終わって先生たちのもとへ、なつかしい京都の大学へかえっていくことは夢想で、まずありえないでしょう、という諦念。自分たちが3年先まで生きていられるとはとても信じられない、とも。
 

 物量もアメリカと日本では雲泥の差があったわけだが(このことはアメリカに留学経験のある軍人、日本海軍提督の山本五十六や硫黄島戦の総指揮官栗林中将も当然知っていた。知っていながらもアメリカを相手に戦争せざるをえなかった。これはいったい何に責任があるのか?)、いずれ神風が吹いて米軍は全滅するとかという神がかった楽観論や精神論で勝てるわけがない。日清、日露の戦争のような人的な白兵戦の時代は過ぎていたのに、軍上層部は兵隊の志気の高さで勝てると錯覚していたというしかない。だから片や核兵器を使おうという時に、日本は上陸した米兵を竹槍で突く訓練をしていた。今からすると滑稽でしかない。科学(アメリカ)と迷信(日本)の戦だったといってもよい。戦勝国になったアメリカに対して今度はどこまでも卑屈になってアメリカの軍事費を肩代わりし、アメリカの尻尾にくっついてアジアの平和をぶち壊そうとしているのが今の岸田自公政権である。

 

 半藤一利氏は、『昭和史』(平凡社、2009年)で「(昭和10年代の日本人は)現実に適応して一所懸命に生きていくだけで、国家が戦争へ戦争へと坂道を転げ落ちているなんて、ほとんどの人は思ってもいなかった。今でも新聞、雑誌、TVなど豊富すぎるほどの情報でわれわれは日本の現状を把握していると思い込んでいるだけで、実は”見れども見えず”で過ちを犯す可能性がある。だから、歴史を学んで歴史を見る眼を磨(みが)け」、「不気味さを秘める歴史を学べ」と警告している。