4月4日の日記に次のようなことが書かれている。要約すると、「日記を読み返してみて不思
議な気がした。ちかごろは自分にも死に対するふてぶてしい気持ちができてきたが、以前の日記
には『自分は将来教職につく身』だと、無意識に生きてかえるのを当然と思っている。教官にむ
やみに死ね死ねと言われれば反発を感じるが、頭では死なねばならぬと考えているのだ」と。友
人鹿島の便りにも、「共に幸多く、共に潔く、意義ふかく短い生涯をおわろう」とあり、自分も
鹿島におくれてはならぬと思うのである。
4月8日(灌仏会)の日記。航空兵器の講義の教官はニューギニアの転進作戦から九死に一生
を得て帰った鷲村大尉で、「大本営報道部のような、いつまでも鳴り物入りで、ハワイ海戦やマ
レー沖海戦の戦果にみんなを酔わせておくようなやり方は、困りものでしょうネエ」と言った。
いったいに、実戦に出て苦労してきた教官のはなしは、概ね謙遜で、狂信的なところや捨て鉢な
ところがないのに対して長いあいだ教育部隊にいて、教官ずれがして小姑的な根性ばかりをつの
らせている連中はいけないとうっ憤をもらしている。
鷲村大尉から「豪州豚」という話しも聞かされた。それは、ニューギニアの密林の中を、飲ま
ず食わずで退却している時に、陸軍部隊が、美味そうな生肉をたくさん持って来て、「豪州豚が
手に入ったから、海軍さんにも分けて上げるが喰わないか」というもの。最初、珍しい話で喜ん
でいたが、そにうち退却する道のあちこちに、背や腿の肉を抉(えぐ)り取られた日本の陸軍兵
の死体が、たくさん転がっていたというのだ。鷲村大尉は人肉を食ったとは言わなかったが、も
しかしたら食ったのかもしれない。知らずに食って、あとでそれが人間の肉だと気づいたら、そ
の気持ちはどんなだろうと語っている。日本軍は食糧、物資は現地調達主義で兵站(食糧、弾薬
などを補給する後方部隊)を軽視していたので、行軍途中の飢えた兵士が人肉を食したことは実
際にあったのではないだろうか。
『餓死した英霊たち』(藤原彰著、青木書店、2001年)に、「東部ニューギニアにおける日
本軍の死者の大半は、密林や山脈を越えての転進(退却)の行軍中に力尽きて倒れた犠牲者だっ
た。食糧が尽き、難行軍に耐えられずに兵士たちは次々に倒れた。・・・補給を軽視する風潮は
陸軍大学校の教育が誤っていたものと思う。」とある。兵士が戦死ではなく餓死あるいは栄養失
調による病死はニューギニア戦線だけでなく、ガダルカナル島の戦、フィリピン戦、インパール
作戦でもそうだった。日本軍の上層部の兵士に対する人権の欠如と非科学的な戦略を物語ってい
る。