わかりやすい俳句はむしろ駄作? では、わからない句は?
わたしは、『毎日新聞』を購読していないので、通常は『季語刻々』(坪内稔典さんの俳句コラム)を読んではいない。 ただ、土曜日は、書評欄があるので、やや遠くのコンビニで『毎日新聞』(朝刊)を購入して読んでいる。 ーー 2025年10月25日(本日)の『季語刻々』では、芭蕉の句が採り上げられていた。 行く秋や手をひろげたる栗の毬 松尾芭蕉 解説はこうだ。 ―― 昨日の「栗茹でて遠くの島の話など」(野口る理)と比べると、芭蕉の句はとっても平易で、意味がよくわかる。つまり、秋が行こうとしていて、その秋をとどめるみたいに栗の手のように見えるイガが開いているのだ。ボクとしては芭蕉の句は分かりやすすぎて駄作。「栗茹でて」が「遠くの島」へ展開する野口さんの句に軍配をあげたい―― と。 ちなみに、昨日10月24日(金)毎日新聞朝刊の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、野口る理の句だった。 ―― 同氏句集『しやりり』より。 栗茹でて遠くの島の話など 野口る理 ・読みのポイント: 「栗茹でて」が、「遠くの島」へ至るその展開に何かを感じるかどうかがこの句を読むポイントだ。」と稔典さん。「ボクはなんとなく栗に似た島を感じる。家が数軒ある瀬戸内の島などを」と。 ちなみに、ボクは、のんびりした昭和の田舎の秋を思いだした。栗といっても、いまや、栗を茹でて食することが希少になったような気がする。栗といえば…「モンブラン」、「マロンケーキ」、「天津甘栗(皮剝いちゃいました)」、など加工されたものがほとんどだ。 わかりやす過ぎる俳句は、駄作。という点は、共感するが、わからない(わかりにくく作った)俳句は、やや閉口する。 俳句の読み(解釈)に「正解はない」のだが、「大まと外れ」、というのや「まがいもの」はありそうだ。 なお、野口る理さんには、 友の子に友の匂ひや梨しやりり という句もある。 野口る理句集『しやりり』より。 ちなみに、小生もつくってみた。 むけぬなら子栗鼠と栗の皮むいて ひうち