旅の思い出「萩・明倫学舎」 日本三大藩校を偲ぶ(萩市) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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萩・明倫学舎(旧明倫小学校校舎)

 

往訪日:2024年4月27日

所在地:山口県萩市江向602

見学:(本館展示室)9時~17時

料金:(本館)無料(2号館)有料

アクセス:小郡萩道路・絵堂ICから約20分

駐車場:180台(310円/日)

■国史跡(1929年)

■登録有形文化財(1996年)

 

《疑洋式建築の絶妙なコントラスト》

 

山口県立萩美術館を出ると、いまだ空は曇天が渦巻いていた。萩焼を商う店を求めて城下町を歩く。フルスペックで観光地化された城下町や門前町と異なり、一間半程度の細い道幅に、蔦が這い漆喰の緩んだ土塀が並ぶ。その瓦から雑草が穂を伸ばした荒涼とした佇まいがむしろ好ましかった。ここを高杉晋作木戸孝允が歩いたのだ。しかし、一向に好い店はなかった。少し気疲れしてもう観光は止そうかと思い始めたが、明倫学舎の朱色の屋根瓦を遥か先に見たとき、あの校舎だけは拝んでおこうと気を奮い立たせた。

 

「たいがい疲れただよ」サル

 

 

萩の明倫館弘道館(水戸)、閑谷黌(岡山)と並ぶ三大藩校のひとつ。儒教と武芸を教える名門だった。

 

(屋根の鴟尾が全体のシルエットを引き締める)

 

明治維新後に旧制・萩中学に再編移転。1885(明治18)年に、この跡地に明倫小学校が建設された(つまりこの時点で藩校は失われている)。その後も学制再編を繰り返し、2014年に新校舎が隣地に竣工。本館は登録有形文化財に指定され、改修工事をへて2017年に明倫学舎の名のもと資料館や市民交流施設として装い新たにスタートした。

 

「見学できるようになったのは最近なんだにゃ」サル

 

 

この本館は見学無料。二号館は企画展示室(主として幕末関係)。三・四号館は行政施設と市民交流センターが入居。本館だけを概観することにした。

 

「本当は疲労困憊しているわけよ」サル

 

 

1935(昭和10)年に竣工。2014(平成26)年までの79年間、現役の小学校だった。

 

 

中央階段の脇に校長室があった。改装されたのだろうか。意外に簡素。

 

 

脇階段から二階へ。

 

 

壁は当時のものなのか。モダンなデザイン。

 

 

こんな風に教室に続く。

 

 

居残り組のおサル。子供用なのにサイズピッタリ(笑)。

 

「ほっとけ」サル

 

 

二号館を望む。大切にされてきたのだろう。全然古色を帯びていない。

 

 

中央階段部。

 

ここから展示室をザッと観てまわった。気になる資料だけ備忘録。

 

 

昭和10年竣工時の小学校の図面。製図法は現在も変わっていない。

 

 

天井を彩るフランス瓦

 

 

明倫館時代から伝わる聖廟の孔子と四賢者の木主(位牌)のレプリカ。伝説によれば昌平坂学問所の大学頭・林信篤の揮毫とか。

 

 

かつての明倫館。かなり広大。現在の二倍以上あるのでは?

 

 

天井裏展示室。2014年度の改修時に発見された筋交い等の構造を観ることができる。

 

 

会議室。

 

 

(実際はもっと資料は膨大だが)これにて見学終了。外にも明倫館の遺構があるので観てみた。

 

 

明倫館之碑が二基並んでいた。向かって左が創建21周年を記念して6代藩主・毛利宗広が由来を顕したもの。

 

 

かたや右側は下ること108年後の13代藩主・毛利敬親新明倫館の完成記念に建てたもの。どちらも土台に亀が載っている。亀跌(きてつ)といって、長寿の象徴の亀に末長く碑文を伝えて欲しいと願いを込めた物だそうな。

 

「亀は万年だからにゃ」サル

 

このあと隣接する萩中央公園を歩いていたら立派な銅像があった。近づいてみる。北村西望の作品の中でもとりわけ有名な山縣有朋像(1966年)ではないの。

 

 

松下村塾に学び、陸軍大将そして内閣総理大臣まで務めた明治の元勲。戦争では武勲の誉れ高い山縣も、重税で苦しめられた国民からの人気はさっぱりで、東京市民の長蛇の列ができた大隈重信とは対照的に寂しい葬儀だったという。大隈の顕彰碑があちこちで観られるのに対して、山縣の銅像は郷里の萩でしか見たことがない。しかもこの銅像。実は最初からここにあったものではない。

 

「銅いうこと?」サル

 

陸軍省の依頼で1930(昭和5)年に完成した本作は陸軍省の敷地に高々と聳えていた。しかし、敗戦後にGHQから撤去の方針が下されるわけよ。

 

「ただの銅像なのに?」サル 銅して

 

復讐心を抱かせる文物は一切禁止したんだよ。だから戦後しばらくは歌舞伎も不遇の時代。

 

「銅ぞ好きにして」サル

 

しかし、制作者の西望は、その後(取り潰しは免れたものの)東京都美術館(上野)の裏庭に放置された自信作に心を痛めて、ならばとアトリエ近傍の井の頭公園に誘致したんだそうだ。そして月日は流れ、西望も亡くなり、またまた山縣は影を薄くする。そんな状況を萩の人々は切なく思い、故郷に呼び寄せようと嘆願活動を始める。

 

「やっぱり故郷では大偉人なのにゃ」サル

 

こうして1992年の初夏、山縣の銅像は最後の居場所に辿り着いたわけ。人間の足跡というものは儚いもの。そんな感懐を抱きつつ、公園を後にした。

 

「サルは毎日が楽しければそれでいい♪」サル

 

ということで、この晩は市内の特約店で(都内ではなかなか買えない)ROOMの純米吟醸(八千代酒造)購入。秋吉台の景清洞トロン温泉で汗を流したあと経費節減で車中泊。翌朝に備えることにした。

 

(旅はつづく)

 

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