名建築シリーズ80
大佛次郎記念館
往訪日:2024年4月14日
所在地:神奈川県横浜市中区山手町113
開館:10:00~17:30(月曜休館)
料金:一般200円 中学生以下無料
アクセス:みなとみらい線・元町中華街駅から徒歩8分
■設計:浦辺鎮太郎
■施工:清水建設
■竣工:1978年
※撮影OKです
《自由・平等・友愛》
ひつぞうです。横浜市イギリス館に続いて、お隣りの大佛次郎記念館を訪ねました。大衆小説『鞍馬天狗』やノンフィクション大作『天皇の世紀』で知られる偉大な作家の記念館です。横浜に越して初めて大佛次郎がハマッ子だと知りました。そしてここ、大原美術館分館の設計でも名高い浦辺鎮太郎の名建築だったのです。以下、建築&文学探訪記です。
★ ★ ★
季節は四月中旬。港の見える丘公園に春めいた優しい光が溢れていた。
手入れの行き届いた花壇はまさに花ざかり。
西洋式庭園の噴水越しに眼を惹く建物が立っている。それが大佛次郎記念館だ。
高校生の頃、毎週日曜の夜にNHK名作ラジオドラマという番組が流れていた。脚本が誰か出演が誰か、今となっては確かめようもないが、諍い合う男女のシーンが記憶に焼き付いている。それが大佛次郎の『帰郷』だった。
「シブがきだったのね」 意味が違うけど(笑)
しかし“大衆小説”を見下していた当時の僕は『鞍馬天狗』の著者にそれ以上の興味を持てず、長い時間が過ぎてしまった。時を経て横浜での生活が始まり、ホテルニューグランドを訪ねた際、常連だった大佛のハイカラぶりを写真で見て、少し見方が変わった。
「ヒツジは上流階級に弱いからにゃー」
そしてもうひとつ。大佛のある嗜癖を知って更にシンパシーを感じるようになった。
既に開館中だが来館者の気配はない。振り向く客は少ないのだろうか。
「嗜癖の話はどうなったのち?」
そうそう。
大佛は無類の猫好きだった。それはおいおい見ていくとしてまずは建築。おサルさ。この建物を見てあるものに似ていると思わない?
「ん?煉瓦造りの建物?富岡製糸場とか?」
紡績って点では良い処突いているよ。
「判らん」 キッパリ
倉敷紡績の工場だよ。いずれも大原總一郎に嘱望された建築家、浦辺鎮太郎の作品なんだ。
浦辺鎮太郎(1909-1991)。倉敷生まれの建築家。京都帝国大学建築学科卒。倉敷レイヨン入社後、営繕部門に携わる。1964年に独立。倉敷市庁舎、倉敷市民会館など、倉敷を中心に多くの名作を残した。
ホテルや行政庁舎が主体で美術館は数例しかない。その意味では貴重。
なんかキッチュなデザイン。
70年代後半といえばポストモダン黎明の時代。“画一的”なまでのモダニズム信仰の季節を経て、新しいデザインが都市空間論との兼ね合いのなかで論じられるようになった頃だ。古典様式のパッチワークのような外観ながら内部は哲学的で過剰なイメージ。これが浦辺鎮太郎なのか。
外から見るとなんてことないヴォールト屋根なのだが。この光はなんだろう。
バブル期のホテルや結婚式場のようでもあるが、やはりひとつの建築思想に貫かれていた。
★ ★ ★
そろそろ大佛次郎のふりかえりコーナー。
大佛次郎(1897-1973)。本名:野尻清彦。横浜市中区英町生まれ。東京帝大法学部卒。鎌倉高女の教職についたのち外務省嘱託翻訳家に転身。その後、生活苦をしのぐために書いた小説『鞍馬天狗』が大ヒット。『ドレフュス事件』『パリ燃ゆ』などノンフィクションに新境地を求め、畢生の大作『天皇の世紀』を手掛けるが癌に斃れ、絶筆となる。
「文学部じゃないんだね」
余計なことかもしれないが「だいぶつじろう」ではない。「おさらぎ」である。若い父親が小さな娘に「だいぶつじろうはね…」と滔々と云い聞かせているが、それではまるで売れない演歌歌手である。
この日の企画展示は大佛次郎と木村荘八だった。
(文士の写真で知られる林忠彦の撮影(大佛1948)(木村1949))
この二人。実は猫友。御覧ください。この紳士と偉丈夫のデレデレぶり。
「自分のにゃんこにバカネコはないんじゃね」
それはね。愛情の裏返しよ。
ちなみに木村荘八(1893-1958)は日本橋の牛鍋屋いろはの経営者の妾腹の子として生まれた。腹違いの兄弟が30人いたという。長じて岸田劉生とフュウザン会を結成。失われゆく江戸情緒を記した随筆家としても知られるね。
ちょっと間違うと悪趣味なんだけど嫌いではない。外観もそうだが、内部も青白赤で統一されている。つまりトリコロール。フランス近代史とゆかりの深い大佛へのオマージュだろうか。
こんなことが書いてある。
“私の家が猫好きだと知って、どこから来るのか人が猫を捨てに来る。迷惑なことだが、私の妻が拾ってしまう。…そこで私は大分前に妻や女中たちに申渡した。「猫が十五匹になったら、おれはこの家を猫にゆずって、別居する」(中略)念のため算えて見たら十六匹いたことがあったので、女房を呼び出した。「おい、一匹多いぞ。おれは家を出るぞ。」と言ったら「それはお客さまです。御飯を食べたら、帰ることになっています。”(「猫の引越し」より)
「15匹飼えば十分ネコ屋敷だよ」
他方、僕が子供の頃にはこんなことがあった。
飼っていた猫が姿を消したことがあった。数日して、猫は何食わぬ顔でちくわを一本ぶら下げて帰ってきた。足許に落とすと得意そうに鳴いた。偸みを働いたとしたら大変だ。毒を撒かれかねない。だが、そんな心配をよそにまた咥えてくる。一体こいつはどこで何をしているのだろう。数日してその答えが判った。猫は道を挟んだ向かいの奥さんに“飼われていた”。「はい。ミーちゃん。御飯ですよう」。猫はにゃーんと鳴いた。
書棚には大佛の著作がビッシリと並ぶ。多くは絶版になったが、剣豪物は文庫で読める。
三色の摺りガラスに透かし絵。椿にオナガ。
梅に鶯。
なんだろう。この花は判らん。
壁には陶板が嵌め込まれていた。
再現された書斎。絵が好きだったらしい。
(左から)島田四郎《女・猫》シリーズ三点
荒井映延《猫》(1984)
佐分真《室内》(1934)
その時々で白が多勢になったり、時代ごとに趨勢があったそうな。
「母親から生まれるガラが同じだからね」
若き日の大佛。猫の置物のコレクションは既に始まっている。
著作コーナー。事例列に展示。
童話も書いていたのか。それより絵が画家の朝倉摂女史とはね。
「誰それ?」
彫刻家・朝倉文夫の娘さんだよ。
ニューグランドに籠って執筆したそうだ。晩年の貫禄ある姿のイメージが強いけど若い頃はスマートだったんだね。
「みんなそうよ」
大佛次郎『霧笛』新潮社(1934年)
『鞍馬天狗』は生活のために書いたが、横浜の今をこよなく愛した大佛にはこれら現代物に愛着があったのではないだろうか。
木村荘八の『霧笛』挿絵原画。
映画「鞍馬天狗角兵衛獅子」(1951松竹)
鞍馬天狗といえばアラカンの当たり役。美空ひばりが少年役で出ている。若い頃の山田五十鈴は本当に婀娜っぽくて好いね。
そしていよいよフランス革命物から…
完結することのなかった絶筆『天皇の世紀』。挿絵画家が壮観。当時のビッグネームばかり。朝日の力の入れようが判るというもの。
昔の作家の原稿は推敲の跡がはっきり判るところが興味深い。
ということでメモは簡単に。好きな人はジックリ鑑賞することをお薦めする。
この日併設された茶室が開放されていたので見学した。
所謂“書院の茶室”だね。
「なんで文学記念館に御茶室なの」
表千家で学んだ酉子夫人の「もてなしの場があってもいいのでは」というアイデアだそうな。
奥の欄干に浜千鳥の意匠が繰りぬかれているでしょ。でも浪がない。なぜでしょう。
「波は窓外にあるからだにゃ」
よくわかったね。
「書いてあった」
なんだよ。
「大佛次郎×ねこ写真展2024」が開催中だった。好いと思うものに数点投票したが、どれがグランプリになったのだろう。(残念ながら猫の写真は撮影不可でした。著作権への配慮かな)
文学好き、建築好き、猫好きにはたまらない記念館だった。この日はこれにて終了。天気のいい日は建築散歩。こんな週末が一年近く続いている。
(つづく)
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