名建築シリーズ71
東京都慰霊堂(旧震災記念堂)
往訪日:2024年3月30日
所在地:東京都墨田区横網2‐3‐25
開館:9時~16時30分(年末年始)
料金:無料
アクセス:JR総武線・両国駅より約10分
■設計:伊東忠太
■施工:戸田組(現戸田建設)
■竣工:1930年
《宗教的様式が融合した不思議な建築》
ひつぞうです。三月末に両国界隈を建築散歩しました。まずは東京都慰霊堂からスタートです。
★ ★ ★
明治後半から戦前にかけて活躍した建築家・伊東忠太の作品があると知り、足を延ばしてみた。
米沢藩生まれの伊東忠太(1967-1954)は父の軍医任官に従い下総佐倉に転居。長じて帝国大学工科大学で辰野金吾の指導を仰いだ。つまり近代建築の第二世代である。伊東といえば古代インド風の築地本願寺(1934)がまず思い浮かぶが、僕が最初に触れた伊東作品は名古屋の日泰寺仏舎利奉安塔(1918)だった。事前情報によれば旧震災記念堂は和でも洋でもない風変わりな建築だという。
★ ★ ★
両国駅で降りて旧安田庭園の脇を抜けていく。間もなく横網町公園が見えてくる。
いきなり鉄筋コンクリート造の三重塔が出迎えてくれた。
「でっかい!」
木造よりも威圧感があるでしょ。
側面からみた構図。仏教建築と城郭が混然一体となった錯覚を受ける。
「扉とかのデザインもどちらかというと神社みたい」
そうなんだよ。この建築はね、様々な宗教的意匠が組み合わさっているんだ。
梲がついたり蟇股があったり。何でも来いだ。
この公園。関東大震災で最大の人的被害を生んだ陸軍被服敞跡なんだ。震災直後、周辺から4万人近い被災者が家財を大八車に載せて集まっていた。
折悪しく颱風の余波で風の強い日だった。午後四時頃、遂に四方から押し寄せてきた火焔の波は強風に煽られて巨大な火災旋風となって人々を吞み込んだ。ここだけで東京市の犠牲者の半数以上に及ぶ約38,000人の尊い命が失われた。助かったのは僅か5%に過ぎない。
「一番怖いのは風きゃ」
亡骸は生き残った人々によって荼毘に付された。堆積した遺骨は3㍍に及んだそうだ。間もなく市内各地に仮設された納骨堂を集約。慰霊と防災記念を目的に震災記念堂が建設された。
小倉右一郎《震災遭難児童弔魂像》(1931/1961再制作)
ロダン門下の小倉右一郎(1881-1962)の制作。亡くなった児童5000人の魂を弔うために寄付金が募られた。戦時中の金属供出で一度失われたが、高弟の二人(津上昌平、山畑阿利一)によって再制作されている。
その後、太平洋戦争による空襲戦没者も合同慰霊することになり、1951年に東京都慰霊堂に名を改めて現在に至っている。当然ではあるが(建築散歩とはいえ)犠牲者の鎮魂の場所。厳かな気持ちで参観させて頂いた(寄附も随意可能です)。
さて、ここで再び建築に眼を戻してみる。設計コンペでデザインが公募された。見事一等を勝ち取ったのはコンペ常連の前田健二郎(1892-1975)だった。
だがしかし。前田の案は不採用になってしまう。
「なんで?」
(一等を獲得した前田案)
宗教界が猛反発した。鎮魂の象徴としては余りに斬新すぎると。
「んー。判るかも」
ということで「鎮魂だったらこの人」と伊東に白羽の矢が立った。前田健二郎って不幸なデザイナーで、大隈記念堂や京都市美術館などたくさん一等を受賞しながら施工に至らなかった(もしくは改変された)ケースが多いんだよ。完成しても既に取り壊されていたりで最早“幻の建築家”(笑)。
「だからこの建物は伝統的な和風なのにゃ」
そうともいえない。
「なんで!」 どーしていつも全否定なんだよ
平面図を見ると判るよ。
ほら。十字架っぽいでしょ。柱の配置も教会建築のバシリカ様式っぽいんだ。
相輪部分も上座部仏教のパゴダに近い。つまり宗教の別なく、亡くなった人々を鎮魂できるように意匠的工夫が施されているのよ。
《東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑》(2001年完成)
季節によって花と花模様が変わる。
暫くここで日向ぼっこをした。体操をしたり愛犬と散歩したり、皆気ままな時間を過ごしている。そして幾人か早い時間から(毎朝の日課なのだろう)弔問する市民の姿があった。
中国式の鐘楼があるので観てみることに。
幽冥鐘と名づけられた梵鐘は国内のものと違ってベルのように広がっている。震災の災禍を知った中国の寺院(上海・玉仏寺と杭州・招賢寺)や上海の大実業家・王一亭氏の支援によって中国で鋳造され、横浜経由で運ばれた。当時緊張関係が生まれつつあったアメリカも含めて約40ヵ国が日本に寄附している。
相互扶助の気持ちは忘れてはならない。そんなことを感じた。
「おうちの中もそうよ」
では見学させていただきましょう。
コンクリート製だけど日本風の擬宝珠。
緑青色と白のコントラストが美しい格天井。
内部はキリスト教の協会を思わせるバシリカ様式。
関東大震災の被害状況を取材して全国巡回して寄附を募った洋画家・徳永柳洲の作品が絵馬のように幾つも掲げられている。そして、どれもが迫真に満ちて怖い。寄附を募るためによりインパクトのある絵にしたのだろうが。
欄間(と呼ぶべきか)の部分にはアラベスク風の浮彫り。
伊東が唱えた“エンタシス伝播論”は僕らの学生時代は定説として教科書に載っていたが、建築探偵の藤森照信先生が俗説とバッサリやったらしい。知らんかった。
いろいろ折衷式だけど不思議と調和がとれている。
鉄扉にもアラベスク。
人の影はなく静かだった。回廊を歩く僕の跫だけが堂内に響き、線香の香りが漂っていた。誘われるように新たに火をつけて瞑目する。内部では震災と戦火の歴史を紹介するVTRが流れていた。日々の取るに足らない倖せに感謝し、平和が続くことを願わずにいられなかった。この後、園内のもうひとつの建物に足を運んだ。
(つづく)
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