名建築を歩く「東京都復興記念館」(東京都・両国) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ72

東京都復興記念館

 

往訪日:2024年3月30日

所在地:東京都墨田区横網2‐3‐25

開館:9時~17時(月曜定休)

料金:無料

アクセス:JR総武線・両国駅より約10分

■設計:伊東忠太、佐野利器

■施工:戸田組(現戸田建設)

■竣工:1931年

 

《帝冠式とアールデコの調和ここにあり》

 

ひつぞうです。両国建築散歩の続きです。二箇所目は東京都慰霊堂の付属施設でもある東京都復興記念館。カーキ色のタイル装飾が美しい建物でした。

 

★ ★ ★

 

 

寺院建築で優れた実績を残した伊東忠太だが、佐野利器との共作である東京都復興記念館では構造屋の佐野に遠慮(?)したのかアールデコ風の幾何学的処理が前面に出たデザインになっている。ちょうど桜の蕾が綻びかける季節。

 

「さっきの建物とはずいぶん違うね」サル

 

 

花崗岩の階段を数段登ると重厚な青銅の観音開きの扉が待っている。防災をうながす啓蒙施設だからだろうか。入場料は無料。垂直と水平だけからなる構成が潔い。

 

 

見あげると魔除けの聖獣だろうか。東南アジア風の装飾が眼を愉しませてくれる。

 

「ドラゴンじゃね?」サル

 

 

植え込みには数個の関東大震災の遺構が展示されていた。日本橋にあった丸善ビルの鉄柱。潮風が近いせいか、端部が腐食で減肉している。時間になったので中に入れてもらった。並んでいたのは僕だけだった。

 

 

中央に二階に続く階段がある。見学は右側から半時計まわりに。

 

 

こんな感じだ。写真パネルと被災資料のセット。

 

「また悲しくなる内容なんじゃね?」サル

 

 

=地震の発生と被害=

 

ちなみに関東大震災の発生は1923(大正12)年9月1日。奇しくもこの日F・L・ライトが設計した帝国ホテル新館のオープンの日。建物は無事だった。

 

 

東京帝大地震学教室の地震計の震災記録。十数秒の初期微動(左のフニャフニャした線)の後に本震が直撃。約二分間の強烈な揺れが続いて地震計は破損。発生時刻は11時58分。その3分後と5分後に同規模の余震が襲っている。ちょうど昼どきでこれが火災の呼び水になった。

 

 

マグニチュード7以上の余震(その規模は阪神淡路大地震と同じ)は六回にも達している。

 

「ほんとに凄まじい地震だったんだ」サル

 

震源は相模湾内陸部だったって。

 

「じゃ神奈川県じゃん!」サル

 

そう。むしろ東京より神奈川の方が被害が大きかった。このことは忘れられている気がする。(僕もそのひとりですあせ

 

 

「全壊率も相模湾と房総半島の先端がひどい」サル

 

そこが震源域だし。この影響で丹沢周辺は1㍍近く沈降。逆に三浦半島房総半島が1~2㍍隆起した。城ヶ島の褶曲地層は地震が生み出したもの。クライミングに適した岩が露出しているのもその影響だよ。

 

「ふむふむ」サル せんけどね

 

 

液状化が河川に沿って発生しているのも判る。でも徒に悲観する必要はない。こうして得られた経験を基に、その後の建築は耐震や免震の措置が取られているはずだ。

 

「何事もまずは予防と備えだの」サル

 

 

9月7日に報知新聞が撮影した三分割の180度パノラマ写真。残念ながらネガもプリントも戦災で焼失してしまった。記念館に寄贈されていたこの写真はその意味で大変貴重らしい。

 

 

場所は皇居の宮城前広場。避難民でごった返している。その数およそ30万人。

 

 

神田須田町の市電の時計。地震発生時の11時58分で止まっている。それよりもこの時代に既に分単位の正確さを維持していた市電がすごいと思う。

 

 

 

 

炭化した洋菓子。時代的にかなり高級品だったはず。捨てるに忍びがたく記念に残したのか。

 

 

合金は簡単に溶けてしまう。

 

 

黒煙を吹きあげているのは東京電燈(現東京電力)本社ビル。道を挟んでこちら側に先程の帝国ホテルが建っていた。必死で延焼を食い止めたそうだ。

 

次の写真は(数寄屋橋方面から撮った)日比谷交差点附近の写真。でもなんか変じゃない?

 

 

後景の黒煙って上の写真と似てるでしょ?

 

「ホントだ」サル 遠近感もおかしい

 

臨場感を出すために合成したものなんだ。悪意なきフェイクニュース。今の時代はNGだけど。

 

 

地震発生直後の銀座中央通り附近(現在の銀座五丁目)。このあと一帯は丸焼けになる。

 

(火災後の銀座上空写真)

 

写真下中央は焼け残った大倉組(現大成建設)の社屋。その右側には建設中の徴兵生命保険銀座ビルがみえる(のちに松屋が入居した)。東(上)側の三十間堀にかかっていた二つの橋(豊玉橋紀伊国橋)は焼け落ちて灰になっている。

 

「地震そのものより火事だったんだね」サル 被害を拡大したのは

 

阪神淡路大震災もそうだった。

 

 

様々な遺留品が展示されていた。

 

 

これは焼け落ちた両国橋の橋名板と親柱先端の装飾。

 

 

これね。震災後、墨田川はもちろん、横浜市内の大岡川中村川に架かる橋も全て架け替えられた。親柱の竣工年が“昭和三年”になっていれば震災復興橋。設計から工事までだいたい五年はかかるんだよ。

 

一方では上流階級による篤志活動も行われた。

 

 

大正三美人と称された九条武子女史だ。西本願寺法主の次女に生まれ、教育と篤志に人生を捧げ、震災孤児の義援金募集活動のために自ら街頭に立った。

 

「なんかメチャ顔色悪そうだの」サル

 

そうなんだ。過労が祟って昭和三年に41歳の若さで亡くなっている。

 

文化人も震災について多くのことを残している。

 

竹久夢二『東京災難畫信』(都新聞)より

 

夢二といえば儚げな美人画を想像するが実は鋭い感性のリアリスト。これは被服敞跡で亡くなった人々を火葬している場面。中央に焼失した両国国技館(二代目)が描かれている。

 

 

=復興へ=

 

内務省直属の機関として国は帝都復興院を設置。道路(橋梁)清掃施設。防火帯としての公園。社会インフラ整備は急ピッチで進むが、更に急務だったのは住宅問題。大きな役割を担ったのが同潤会だった。内外の義援金1000万円を基盤に、1941年の解散まで賃貸式アパートメントを供給した。

 

「それまでアパートってなかったの?」サル マジか

 

そういうことらしい。

 

 

短納期や(竣工後の)利便性も兼ねた、装飾を排除したモダニズム建築が一気に導入されるんだよ。その指揮をとったのが東大安田講堂の設計でも知られる内田祥三(1885-1972)だ。

 

 

同潤会アパートなど、老朽化でその殆どが惜しまれつつ取り壊されてしまった。当時はかなり斬新だったはず。

 

 

泰明小学校など、小学校も名建築揃いだった。

 

“都市計画の父”と呼ばれる後藤新平など復興事業を推進した人たちだ。東京生まれじゃないんだよね。みんな。

 

 

地震は公共事業を推進するうえで“難題”となる用地買収を一気に加速する契機にもなる。“火事場泥棒”的だと揶揄する向きもあるが、誰かがやらねばならない重要な仕事だ。

 

 

 

例えば名古屋の100㍍道路こと若宮大通や大阪の御堂筋。これらは田淵寿郎関一の信念と粘り強さがなければ日の目をみなかっただろう。土木の世界では一見地味な都市計画。後世に残る偉業は知られざる人々の努力の賜物だ。

 

震災記念堂(現東京都慰霊堂)の設計コンペの図面も幾つが展示されていた。

 

 

最終的にこのようになって今に繋がっている。

 

ここで二階へ。

 

 

階段は割と簡素な造り。

 

 

踊り場で左右に階段が分かれる。

 

 

フロアには徳永柳洲(1871-1936)の作品が並んでいた。岡山出身の徳永は萬万報に入社。明治44年の欧州留学後は油彩画家として活躍。震災の記録画で全国巡回して寄付金を募った。晩年は富山に転居し、山岳絵画を描いたそうだ。

 

 

確かに取材内容が強烈。根府川って江之浦測候所のあるあたりだな。あの斜面が崩壊したら…。

 

徳永柳洲《横浜の全滅》

 

神奈川県の死者33,000人のうち横浜は27,000人。およそ80%。しかも関内周辺が一番被害が酷かったってあせ。だよね。吉田川を埋め立てでできた土地だし。液状化して建物が倒壊したんだ。

 

「マジか…」サル

 

どうでもいいけどタイトルが怖い。

 

 

二階は中央のホールが常設。周囲の回廊は企画展示だった。

 

 

幹線街路第一号(昭和通り)模型(1929)。地下のインフラは位置まで正確に再現。

 

 

有島生馬が描いた油彩で安田善次郎が寄贈した。有島って洋画界の中心的存在だったけど代表作って聞かないよね。随筆や絵画評論はたくさん出版しているけど。

 

 

どういうわけか当時の有名人や親族をたくさん描き込んでいる。不思議な趣味だ。

 

 

ということで、建築そっちのけで地震の怖さに見入ってしまった。去年は関東大震災が発生して100年目の節目の年。天災は忘れた頃にやってくる。漱石の弟子だった物理学者・寺田虎彦の言葉だ。

 

「気をつけゆ」サル

 

(おわり)

 

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