安曇野市豊科近代美術館
℡)0263-73-5638
往訪日:2024年2月17日
所在地:長野県安曇野市豊科5609-3
開館:9時~17時(月曜休館)
料金:一般520円 大高生310円
アクセス:長野自動車道・安曇野ICより5分
駐車場:約100台
※一部を除き撮影OKです
《思わず固唾を嚥んだ その均整に》
(文中幾つか写真をネットより拝借しています)
二月中旬に安曇野の豊科近代美術館を訪ねました。ここは彫刻家・高田博厚(たかた ひろあつ)のコレクションで知られる市営美術館です。ようやく訪れることができました。以下、往訪記です。(敬称略)
★ ★ ★
恥ずかしい話だが、今更ながら地方美術館の底力に舌を巻いている。特別展を観たければ東京への巡回を待てばいい。都会暮らしなのにわざわざ地方に足を運ぶなんて。そんな不遜な思いを抱いていた。考え違いに気づいたのは三重県立美術館を幾度か再訪したあたりからだった。
(ネットより拝借いたしました)
柳原義達や井上武吉の彫刻。林武、堀文子、岡田三郎助の絵画。素人も玄人もそれぞれ納得できる企画やコレクションを観るにつけ、美術館は“容れ物”ではなく、その学芸員のセンスで展示(キュレーション)やコレクションの方向性が決まる、そんな当たり前のことに気づかされた。それ以降、個性あふれる常設展示を追って地方美術館を歩いている。
豊科(安曇野)は美術館の宝庫。登山に興じていた頃はその恩恵に気づいていなかった。二月中旬、この日も快晴だった。常念岳の白銀の尾根が眩しい。
「快晴だにゃあ」
高田博厚の人物と仕事に興味をそそられた去年。纏まったコレクションは安曇野、福井、埼玉に偏っていることを知った。過去を否定し続けた高田の破壊と創造の連続は作品の数を自ずと絞った。だが、なぜ(ゆかりのない)安曇野なのだろう。経緯は不明だが、遺族によって遺品の大半が寄贈され、豊科近代美術館の基礎になったと聞く。
高田博厚《礼拝》(1982)
落ち着いた優美なフォルムは最晩年の作風。静かに出迎えてくれた。
「だーれもおらんしね」
いいんだよ。静かだし。
(館存続のためには本当は良くない。皆もっと来て!)
高田作品だけで相当な数と聞く。常設のみ鑑賞することにした。
【平面図】
エントランスを右に進むと矩形の回廊が続く。そこにトルソーや大型作品がずらりと並ぶ。展示室②③は小型の胸像中心。また展示室①④は郷土ゆかりの画家の作品が並ぶ(展示室内は撮影禁止です)。
「おお!いきなりでっかいヤツが!」
高田博厚《カテドラル》(1937) セメント
エントランス中央で代表作《カテドラル》が待っていた。素晴らしい!固唾を嚥む絶対のプロポーション。晩年の様式化された乳房と違って、遠慮気味の造形に作者の恥じらいが眼に浮かぶ。初々しくも大胆な傑作。
「黄色いにゃ」
材質がセメントなんだよ。経年変化だね。
「ついグルグルまわりたくなる」
渡仏して七年目。パリ時代の成果だ。荻原守衛の《女》にも似て、表面の平滑な処理が見事。60年代にはロダンの作風と呼応してゴツゴツした勢いある表現になるが、まだ解剖学的な均整美が支配的だ。
臀部、背筋、腹筋の張りを観るかぎり、モデルは運動選手かサーカス団員かもしれない。本当にすばらしい作品だよ。
ここで高田博厚の経歴を振り返ってみよう。
「すまんの」 まいど
高田博厚(1900-1987)。石川県出身の彫刻家・文筆家。東京外国語学校(現東京外大)イタリア語科卒。少年時代より哲学、美学、文学に親しむ。とりわけ語学に優れ、岩波茂雄に懇願され若くして『ミケランジェロ伝』を翻訳。雑誌『白樺』を介して高村光太郎や白樺派の文人と交わり、ロダンやロマン・ロランに傾倒。油彩から彫刻へと専攻をかえて1930年に渡仏。戦後は西落合、鎌倉と転居するなかで作風も変化。豊かで思索的な人物作品を多く手がけた。
この胸像の先の小品は撮影禁止。
高田博厚《ミシェル・アルコス夫人》(1959) 石彫
戦後の西落合時代の作品だね。サイドに博厚のHが記されている。
のちに新制作派協会にも属したが、佐藤忠良や舟越保武らよりひと回り年長で、美大出身でもなかった(受験はしたが失敗した)。その意味で少し異色の存在かもしれない。ロダンと高村光太郎の影響なくしてその人生はなかったと言っても言い過ぎではないだろう。
「少し上の世代なのね」
そうなんだよ。
美術館の内部は中世の教会のようなデザインだね。
「正面に小さな裸婦像があるね」
高田博厚《海》(1962)
西落合時代の典型的な作風だね。好きな作品のひとつ。
乱暴だけど作風を時代で区切るとこうなると思う。
習作時代(1921~1930) 荻原守衛に続き幾分写実的
パリ時代(1930~1957) ロダンの影響がどっぷり
西落合時代(1957~1966) モダニスム風の造形
鎌倉時代(1966~1987) 「形」から離れ「存在」を追求
戦争はヒューマニストだった高田にも大きな傷跡を残した。だからだろうか。戦後は作風が大きく変わる。
高田博厚《古在由直》(1927)
渡仏以前の修業時代の作品。ロダンのバルザック像と見紛うほどその影響を感じる。古在は学者一族の大ボスで農学と足尾鉱毒事件に奔走した大偉人。よく似ている。渡仏前の作品は他に《男の首》(1928)《小山冨士夫》(1928)のみ。殆ど残っていないので貴重な作品だ。
高田博厚《ロマン・ロラン》(1961)
帰国後の作品。まだ指痕や箆痕も鮮やかでロダン風を残しているが、影ある表現が印象的。
高田博厚《ガンジーⅡ》(1966)
リアリズムから遠く離れつつある。
(芸術優先で家庭を振り返らなかったため)最初の妻に見放された高田が、1966年に大野常と再婚。鎌倉に転居した。その頃の作品だ。欧州近代彫刻の影響を受けていたのだろうか。事実、1967年に『偉大な芸術家たち―ロダン・ブールデル・マイヨル』という入門書を出している。
他にも岸田劉生、萩原朔太郎、志賀直哉、川端康成、新渡戸稲造、宮沢賢治など、誰もがよく知る人物の彫刻が山のように展示されていたが(申しわないが)全く似ていない。逆にここに掲げたガンジーやロマン・ロランが似ているのが不思議なほど。そう、高田は既にモデルに“似せる”ということに関心がなかった。
高田博厚《女のトルソ》(1965)
太腿と腰の量感を感じよう。
(同上)
最早腕も頸も要らない。
「トルソ多くない?」
後から腕を剝ぎ取った作品もあるね。
高田博厚《女のトルソ》(1965)
高田はこう語っている。
“姿態や構造に過剰な「説明」はなく、ただ「黙って在る」ことがそれに接する者に「無限」に語りかけてくる。これが美術の本質だ。いいかえると首も手もない、ただ「人間の中心的なトルソ」だけで「美」を示せる作家が本当の彫刻家だ。”
高田博厚《三人のニンフ》(1961)
原型の石膏は高田の母校、福井県立藤島高校(旧福井中学)の本館落成祝いに高田本人が寄贈したレリーフ。それを当ミュージアムの開館一周年を記念して鋳造したもの。
高田博厚《女の大トルソ》(1964) 手前左
一点ずつじっくり観てまわった。中央部が吹き抜けなので冬場はかなり寒い。
★ ★ ★
ここから鎌倉移住後の作品だ。スタイルが洗練されてくる。
高田博厚《憩う》(1976)
肉体の構造やその仔細などたいして重要ではなかったのだろう。
《カテドラル》で見せた再現に拘る眼差しはどこにもない。腹部も胸部も単純化かつ形式化されている。「在る」ことの証明のために「形」は奉仕するに過ぎない。そんな声が聞こえてくるようだ。
観る位置を変えただけでその「存在」に圧倒されないだろうか。
「妙なパワーを感じる」
高田博厚《地》(1978)
一見すると説明的で面白味にかける。
しかし、別の角度で観たとき、途轍もない存在感で逼ってくる。
彫刻は全体を“面”で観ても面白くない。作者の意図を想像して、様々な角度で、そして細部まで、更には奥底まで覗く。すると必ず鑑賞者の眼になにかが応えてくる。
「個人の意見ですにゃ」
高田博厚《男のトルソ(ヘラクレス)》(1973)
存命中の高田を知らない僕らは後世の言葉でその人となりを想像するしかない。得てして美に妥協しない謹厳な哲学者の姿を描きがちだが、ユーモアが判る至って大らかな人柄だったらしい。
高田博厚《女のトルソ》(1973)
正面だと間延びした肢体で全くつまらないが…
(同上)
どうです。アングルの画みたい。胴長だがキュートな臀部と見事にマッチ。
高田博厚《在Ⅰ》(1980)
傘寿を迎えた高田の記念碑的作品。とても穏やかだ。片膝立ちと微かに笑みを浮かべた表情。仏様のようでない?
「そっきゃなー?」
弓なりの眉とアーモンド型の双眸。
国宝 中宮寺《弥勒菩薩半跏思惟像》(飛鳥時代)
口許はやや違うけれど、弥勒菩薩のアルカイックな笑みを髣髴しないかな。
「なにをジーっと見てるのち?」
これさ。あの絵を思い出すんだよ。
ルネ・マグリット《凌辱》(1934)
「いいたいことは判るけど」 全然ちっぎゃう
高田の彫像はもはやエロスから解放され、「存在」の結晶として佇んでいた。
照明も悪くない。これほど充実した市立の地方美術館は初めてだった。
★ ★ ★
その他、飯沼一道、奥村光正など郷土画家の作品が展示されていた。最後にこの画家について記しておきたい。宮芳平だ。先日甲子園ホテルの回で清水多嘉示の諏訪高女の前任美術教師と伝えたあの宮芳平だ。実はここに宮の問題作が修復を終えて展示されていた。
その前に振り返りのコーナー。
宮芳平(1893-1971)。新潟県魚沼市出身の画家・教師。東京美術学校卒。第8回文展に出品した大作《椿》が落選。自信作だった宮は納得できず、審査主任の森鷗外を自宅に訪ねる。その気迫に帝国陸軍軍医もさすがに気圧されて「そこじゃなんだから取り敢えず上がんなさい」と自宅に招き入れた。これを切っ掛けに芳平は鷗外と親しく交わるようになる。文豪の心に刺さるものがあったのだろう、このエピソードは短篇『天寵』に纏められている。
「なかなかできんなー」
宮芳平《椿》(1914)
1915(大正12)年に晴れて第9回文展で入選。村山槐多や山崎省三と日本美術院で腕を磨き、(やはり悲劇の画家)中村彝に師事した。1923年に美術教師の職を得て茅野に転居。晩年は京都で生涯を終えた。感のいい人はお気づきだろう。歌人の宮柊二は息子である。
遺族から寄贈されたときは絵の具も剥落してボロボロだった。だが最近の修復技術はすごい。写真では伝わらないが、椅子に座る女性と手許と足許の椿二輪が点描で処理されている。巨大なゴブラン織りのようだ。労作だが製作意図は伝わりにくかったかも。その他抽象画風の風景画など油彩数点とアトリエが再現されていた。こっちの方が見応えあるかも。
以上で鑑賞終了。大満足。
この後もう一箇所、別の場所に立ち寄り、今宵の宿に向かった。
「最近このパターンだの」 山に登らされるよりなんぼかマシ
(つづく)
ご訪問ありがとうございます。