旅の思い出「小田原城」 戦国武将の栄枯盛衰を知る(神奈川県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

国史跡 小田原城

℡)0465‐22‐3818

 

往訪日:2023年12月2日

所在地:神奈川県小田原市城内6‐1

開館時間:9時~17時(12月第2水曜休館)

見学料:一般510円 小中学生200円

アクセス:JR小田原城から徒歩10分

駐車場:なし(近隣の有料駐車場を利用)

📷撮影NG箇所あります

 

※ネットより幾つかの写真を拝借いたしました

 

ひつぞうです。江之浦測候所を見学したあと、電車で移動して小田原城を見学しました。明治以降に廃城になり、建物の殆どが取り壊されてしまいましたが、1960(昭和35)年の天守閣を皮切りに、常盤木門、銅門、馬出門が再建され、本丸、二の丸は国の史跡に指定されています。歴史の重要な舞台となったかつての名城。一度は訪ねてみたい場所でした。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

小田原駅に着き、駅前の老舗蕎麦屋「寿庵」で狸そばを啜った。九つの味が愉しめる宿場そばが名物らしいが、そんなに食べると夕食に響く。それに寒い季節はシンプルに温かい狸が一番。勘定をすませて徒歩で小田原城へ。まもなく堀端に出た。二の丸広場でイベントが開催されているようで、誘い込まれるように学橋を渡った。

 

 

どうも変だ。眼の前に銅門が聳えている。馬出門をすっ飛ばしてしまったらしい。

 

(城内図)

※ネットより拝借いたしました

 

そう。正しくは(模式図の赤斑点の)正規登城ルートを進むべきだったのだ。

 

「いいんじゃね」サル テキトーで

 

そういう訳にはいかない。物事には順序ってものがあるのよ。

 

「メンドくさ…」サル

 

 

馬出門まで戻る気力はないので、住吉橋から眺めるだけにした。

 

 

では改めて住吉橋から登城。石垣が美しい。関東大震災では崩落の被害を受けたそうだね。

 

 

城内は市民憩いの広場になっている。

 


続く銅門(あかがねもん)。二の丸の正門にあたる。

 

 

銅門の二階は櫓構造の渡櫓門になっていて、続く内仕切門には沢山の狭間(さま)が設けられている。侵入した敵をこの曲がり角で迎え撃ち、縦横に射貫くんだって。

 

「縦と横から狙われるのはイヤだなあ」サル

 

 

門扉は名前の由来となった銅板葺き。土日は櫓に登ることができる。

 

「いってみゆ」サル

 

内部では小田原評定が再現されていた。

 

「なに?オダワラヒョージョーって」サル

 

秀吉の小田原攻めに対して、北条勢は合議で談判を重ねたが、降伏か徹底抗戦か結論が出ず、遂に敗北してしまったという故事だよ。ある意味民主的だったんだけど、今でも“結論の出ない無駄な会議”を揶揄して云うよね。もしかして僕ら古い世代だけ?

 

 

おサルが加わると余計纏まらなくなるような…。

 

 

二の丸広場から天守が見えるね。

 

 

土塀の構造。こんなに幾層も被覆されているんだ。

 

 

かつての銅門の礎石ではないかと言われている。

 

「判んないんだ?」サル

 

廃城後に等閑にされていたからじゃない?

 

 

このイヌマキの大樹の方が興味深い。なんで幹が捩じれるんだ?

 

 

常盤木門に向かう。初夏にはこの空堀にショウブと紫陽花が咲くらしい。

 

 

誰もいないタイミングを狙っているだけで観光客はそれなりにいる。

 

 

常盤木門だ。本丸を護るための設備なので堅牢で大きい。市制30周年を記念して1971年に再建された。

 

 

いよいよ天守閣だ。再建後は五階建てのミュージアムになっている。高さ38.7㍍の三重四層構造。

 

 

展示内容は以下のとおり。

 

(1F)小田原城の機能と江戸期の歴代城主

(2F)戦国時代の小田原城(小田原北条氏)

(3F)美術工芸品と発掘調査

(4F)明治から現代まで

(5F)天守再現(摩利支天像)+展望台

 

料金の割りにボリュームがある。しっかり見学すると1時間以上かかる。

 

 

本丸を見下ろしながら入場。

 

 

入り口の扉には昭和35年に湯河原で発見された神代杉が用いられていた。

 

 

まずは1階。再建の参考となった模型。

 

 

江戸時代には地震の被害も受けた。二回再建されたのはここだけらしい。寛永地震(1633年)と元禄地震(1703年)の間はわずか70年。そちらの方が驚いた。

 

 

藩主・大久保忠増による元禄再興の経緯を記した石碑。奇しくも関東大震災で崩落した天守台石垣の中から発見されたそうな。

 

 

=戦国時代の小田原城=

 

「そもそも小田原を最初に治めた藩主って?」サル レキシはさっぱり

 

北条早雲を祖とする戦国時代の小田原北条氏だね。秀吉の小田原征伐によって滅亡するまでの早雲-氏綱-氏康-氏政-氏直の五代を指すよ。後北条氏とも呼ぶ。鎌倉時代の執権、鎌倉北条氏と区別するためにね。

 

「関係ないのきゃ?」サル

 

ないよ。北条家14代の高時後醍醐天皇一派が滅ぼしたでしょ。建武の新政ってやつよ。

 

「じゃなんで北条氏なのかの?」サル

 

(早雲は晩年に大徳寺の禅僧になった)

 

開祖の早雲(元の名は伊勢宗瑞)はもともとは西国出身の地方武士。下剋上によって相模国以下、関東一円を制覇したわけよ。でも、在郷の武士は彼ら一族を他国者(よそもの)として容易に認めなかった。

 

 

そこで、二代目氏綱(1487-1541)は、相州で馴染み深い「北条」に改姓にしようと考えた。その後、武蔵、下総と勢力を拡大。関東管領の座に登り詰める。領内統治においては代官制を排して悪政排除に貢献したとされる。

 

 

若くして家督を継いだ三代目・氏康(1515-1571)。武田、今川と相甲駿三国同盟を結んだ。なんとか命脈を繋いだ感じか。

 

 

しかし、四代目・氏政(1538‐1590)の代に、秀吉の小田原征伐にあって親子ともども三箇月の籠城後に降伏。切腹を命じられ、事実上、小田原北条氏は滅亡する。

 

 

その氏直(1562-1591)は(家康の娘婿ということもあってか)命だけは救われ、高野山で謹慎生活を送り、30歳で病没している。今川氏しかり、武田氏しかり。戦国武将はまさに栄枯盛衰だ。

 

 

=江戸期の領主たち=

 

その豊臣家もまた、わずか二代で滅亡。

 

(大久保忠世像)

 

北条氏滅亡後、最初に入城したのは徳川譜代、大久保忠世(1532-1594)だった。戦の砦だった小田原城を近代城郭として整備した人物だ。しかし、二代藩主忠隣(ただちか)が幕府の許可なく養女を結婚させたため、将軍秀忠の怒りを買い、改易させられてしまう。

 

「いいじゃん。結婚くらい」サル

 

そうはいかない。縁戚関係を結ぶことで戦国武将は和睦や同盟を結んできた。つまり、秘密裡の縁組は謀反のきっかけを作ることになる。だから、その規則が武家諸法度に厳しく規定されたんだよ。ちなみに時代劇で出てくる“天下の御意見番”こと大久保彦左衛門忠隣の弟。明治大学リバティータワーの近くに屋敷跡がある。

 

(稲葉正勝像)

 

幕府直轄領となったのち(阿部正次の時代を挟んで)1632年に藩主となったのが、三代将軍家光の信任厚かった稲葉正勝(1597-1634)だ。何といっても、正勝の母親は家光の乳母、春日局だからね。

 

(七代藩主・大久保忠真)

 

しかし、その稲葉家も三代目、つまり正勝の孫、正往の代に越後高田に転封されてしまう。

 

「またなんかやらかしたの?」サル

 

親戚が大老暗殺事件を起こしてしまって、その巻き添えを食ったわけよ。代わりにやってきたのが大久保忠朝(1632-1712)。つまり、改易をくった忠隣の孫。実に71年ぶりの返り咲きだ。しかし、元禄地震や富士山の宝永大噴火に飢饉など、歴代藩主は財政難に悩まされ続けることになる。だが、7代藩主・忠真(1778‐1837)の時代に、とある人物の登用によって光明が差した。それが小田原出身の農政思想家、二宮尊徳だ。

 

「小田原出身なんだ」サル あちこちで薪しょってるし

 

僕もてっきり栃木県出身だと思っていた。あとはいろいろあって明治維新へと歴史は進む。

 

 

これは元禄地震前の最盛期の城郭模型。《寛永年間小田原城廓総図》(宮内庁)を下敷きにしている。現在は失われた外堀との間に、武家屋敷を配した三の丸があったことが窺われる。

 

「本丸御殿も立派だっただろうにゃ」サル

 

 

小田原って外郎でも有名なんだね。外郎といえば名古屋、山口、宮崎というイメージだったけど。

 

「諸説あるけど発祥の地ははっきりしないらしいにゃ」サル

 

個人的には名古屋の青柳ういろうが好き。

 

 

でも小田原といえばやっぱり小田原提灯でしょ。

 

「おサルの籠屋だの♪」サル

 

 

=工芸品と発掘品=

 

 

京焼に鍋島焼。出土品の数々。青いガラスでできた簪が珍しい。

 

さて。最上階に向かおう。

 

 

=摩利支天像=

 

かつて天守には阿弥陀如来、大日如来など“天守七尊”が祀られていた。しかし、明治の廃城令によって臨済宗の永久寺に移されることに。その後、2016年の大改修によって安置空間が再現され、摩利支天像だけが還ってきた。

 

 

残念ながら特別公開以外は安置空間には入れない。こうして遠巻きに鑑賞するしかない。他の六尊は写真だけ。忠朝時代(17世紀後半)の作と言われる三面六臂の木造神。

 

 

この厨子に安置されていた。

 

 

展望台から望む箱根の山々。

 

 

そして真鶴半島。

 

 

小田原駅と、その背後には丹沢の山々。この角度から見る丹沢は峩々として貫禄に満ちている。

 

 

似合うよね、こういうの(笑)。

 

「自信あゆ」サル

 

抱腹絶倒の一枚だが、残念ながら顔はお見せできない。

 

 

再建だったが、建物の美しさに加えて、小田原を治めた戦国武将の歴史も詳しく知ることができて大満足の往訪だった。

 

 

馬出門を出る頃にちょうど日没を迎えた。

 

 

この後は再び電車で移動。予約した店に向かった。

 

「愉しい旅だったにゃ」サル

 

(つづく)

 

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