高知城歴史博物館
℡)088‐781-1600
往訪日:2023年11月23日
所在地:高知県高知市追手筋2‐7‐5
開館時間:9時~18時(不定休)
見学料:企画展700円 他の期間500円
※高知城とのセットチケット(900円)
アクセス:JR高知駅から土佐電経由15分
駐車場:有(65台)最初1時間:370円+30分(110円)追加
■設計:日本設計
■竣工:2016年4月
※企画展は撮影NG
《建物自体も素晴らしい!》
ひつぞうです。城郭見学に続いて高知城歴史博物館を訪ねました。以下、往訪記です。
★ ★ ★
博物館は大手門の正面にある。ガラスパネルで野面積みの石垣を模した近代的な建物だ。
とても凝った設計だが、手掛けたのは組織系大手の日本設計だった。
一階でチケットを購入。エレベーターで三階の展示室に向かう。
左の穴あき壁は土佐檜製。
焼成煉瓦の床を、波形ガラスの自然光が、優しい間接照明とともに床を照らす。菱形は高知の伝統工芸品である土佐打刃物を意匠化したもの。
「なるほど。だから刃物屋が多いんだ」 このあたり
あと骨董屋も無闇に多いよね。
★ ★ ★
早速見学しよう。
(流せば30分。しっかり鑑賞すると企画展と一般展示で2時間は必要)
先史時代から近代にいたるまでの高知県の歴史を一望できる。
ここでは一足飛びに土佐藩の歴史を。
山内家の系図。折角載せたけれど小さかったね
初代一豊(かつとよ)に始まる土佐山内氏は鎌倉の山内荘の出らしい。その後一族は各地に散り、一豊の祖父が尾張に移り、尾張山内氏が誕生。一豊は信長に負けたり、秀吉に付いたり、戦国の乱世に翻弄されつつ、関ヶ原の戦いで家康方の東軍に列して、土佐一国を与えられ、以降明治維新まで16代にわたり、土佐藩を治めることになる。
作者不詳《山内容堂肖像画》油彩 幕末期
幕末四賢侯として名高い殿様が、容堂こと山内豊信(とよしげ)だ。藩主の相次ぐ急死によって、突如ピンチヒッターのように分家筋から担ぎ出されながら、公武合体を唱え、徳川慶喜に大政奉還を建白。日本を開国に導いた人物のひとりとして知られる。
「ステキな御顔立ち」
しかし、藩政改革で大老・井伊直弼に睨まれたり、維新後は平民となじめず、酒と女に溺れるなど、ストレートに明君の道を歩めなかったあたり、人間味が感じられて嫌いではない。そんな処も人気の理由のひとつになっているのではないかと勝手に思っている。
「高知の男全員が女好き酒好きと思っちゃ困るなー」 パパリンが怒るよ
荒木寛一・荒木寛畝《箱根旅行絵巻》(19世紀)
1871(明治4)年5月~6月の容堂の箱根旅行を、御用絵師の二人が57段からなる紀行画風に描いた。
富士山の手前の山に神社のようなものが見えるでしょ。
「見えるにゃ」
あれは野辺山の伊勢山皇大神宮だよね。こんな峩々たる山じゃないけど。
「箱根神社じゃないの?」
ん?なんか自信なくなってきた…。
大名行列で使われた黒大鳥毛という飾り。大馬験と槍先飾りですな。
『嘉永武鑑』(1852年)(※このページに山内家が掲載)
言わば、大名家版タレント名鑑。当初の名前、知行高(収入)、居城(住所)などが記されている。個人情報垂れ流しである。では果たして誰が買ったのか。江戸勤番の武士と、なんと一般庶民らしい。今も昔も変わりませんな。
「ひと昔前は加山雄三の住所も丸わかりだったし」
そんな土佐藩。当時はどんな状況だったのか。
非常に大変なことになっていた。確かに東軍に組したとはいえ、直前まで秀吉に追従した外様大名。開幕100年にして、借金は雪だるま式に増えていた。そのうえ1707年に襲った宝永地震の大津波は、天然の良港を多く抱える土佐藩に壊滅的打撃を与えた。だからこそ南海トラフ地震への備えは大切だ。
「地震は忘れた頃にやってくゆし」
ということで、借金返済には殖産しないといけない。返済の中心は米。しかし、海と山に囲まれた土佐藩。人びとは多くの恵みを別のものから生み出していった。過去の一大産業は和紙、そして捕鯨に林業。今でも続く名産といえば鰹節。
そんな土佐藩だが、この東西に長い領内を正しく治めるのも至難の業。
こんな具合に、藩政の中心(現在の高知市周辺)と、地方行政を区分し、地方自治と中央の分権化という理想的な統治体制を敷いていった。このパネルがまた理解しやすい。ここの学芸員すごい。
9代藩主・山内豊雍の書《啓沃》(18世紀後半)
「啓沃」とは「思うことを包み隠さず君主に申し述べること」。
「なかなか言えんよね」 言ったらクビ
当時の土佐藩は飢饉と内紛で疲弊していた。名君の誉れ高い豊雍(とよちか)の改革はのちの時代の手本となったそうだ。そして、いよいよ幕末。
よく言われるけど、同じ藩のなかで穏健派と急進派が激しくぶつかった。
「写真残ってんだね」
皆新しいもの好きな点では変わりなかったんだな。
そんな容堂に最初の挫折が訪れる。
《井伊直弼大老奉書》(安政6(1859)年4月28日)
世に云う安政の大獄に際して、大老・井伊直弼が「容堂君は体調が悪いから下屋敷で静養したほうがいいでしょ」と、12代山内豊資に封書を宛てた。実質的な謹慎処分だった。
「腹たったろうねえ」
だろうね。
《慶長四年大功記大山崎之図》(19世紀)
戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い)を秀吉と明智光秀の戦に見立てた錦絵。土佐藩も新政府軍として参戦。右奥の家紋で判るね。
《山内豊範高知藩知事任命書》(明治2年6月)
とういうことで無血開城の果てに明治新政府が誕生。最後の藩主16代山内豊範の高知藩知事任命を記す書状だ。
「高知県じゃないの?」 なんで?
最初はまだ高知藩。現在の47に整理されるまで離合集散したんだ。その後、高知城は明け渡され、二年後の廃藩置県によって、豊範は東京に移住した。
ここからは土佐藩の工芸・美術・学芸をさらりと。
《尾戸焼貝尽くし文蓋つき鉢》(19‐20世紀)
二枚貝から伸びるのは海藻のミル。高貴さの象徴なんだって。
「始まるのね」 ついてけないヒツヒツworldが
《紫陽花蒔絵 棗》(18世紀)
棗は茶器のひとつ。棗は明治の頃、骨董品として人気を博した。
《朝顔螺鈿蒔絵沈箱》(17世紀)
沈(じん)は地中に樹脂が固まってできる香木の一種。これはその専用の箱。細かい蒔絵の花弁に美しい(クジャクアワビだろうか)螺鈿が施されている。
河田小龍《扇面》(19世紀)
狩野派を汲む土佐の絵師、河田小龍はジョン万次郎の聞き書きを行った人物としても有名だ。描かれたのは木槿、もしくは芙蓉と言われる。
牧野富太郎著『随筆 植物一日一題』(1953年)
僕の最初の牧野体験は、子供向けの自伝だった。自宅そばの野原でオニフスベを発見。その潰れたバレーボールのような奇天烈な物体が、実はキノコに一種であると知った牧野は、多様な植物の世界に魅了され、のめり込んでいった、というような内容だった。これはその大人向けのエッセイである。
森田潤《尾戸焼瓢形吹墨水柱》(19‐20世紀)
土佐藩御用陶芸師・9代森田潤(もりた・うるう)の作。胴に吹き墨の技法で呉須を彩色。瓢箪の花や葉は貼りつけによる。明治初期に流行った意匠か。民窯として名を成したものの、大正二年には窯を譲って廃業している。
《古代塗色絵栗茸図盆》(明治-昭和期)
古代塗と呼ばれる土佐名物の工芸。絵師・種田豊水が始祖とされる。立体的な彫りに豊かな色彩と厚みのある塗り。美しい銘品。
《兎耳成兜》(17世紀・複製)
なんだ?これは。樹脂製の造り物か。いや、そんなはずはない。右耳(で、いいのだろう)の一部に塗りの欠損がある。間違いない。実際に“ウサギの耳をした兜”として制作された兜に違いない。問題は誰がこれを被ったか。
「サルが被った」
いや、これは体験コーナーでのおふざけ、余興である。今問題にしているのは歴史上のどんな人物が被ったか。それは四代藩主・豊昌(1641-1700)の所有ではないかと言われている。しかし、おサルよ。恥ずかしがって顔隠しちゃ面白さ半減よ。
「ヒツかぶってみ」 んなことゆーならさ
頭が大きすぎて入らない。で、二人で大笑い。カネの要らない余興。安上がりでいい。
いろいろ愉しかった。
なお企画展はこんな感じ(写真撮影はNG)。常設展示の延長のようなものだったかな。(戦国時代が苦手ジャンルなのもあるが)大名家ってなかなか覚えきれない。なので大層勉強になったし、素直に愉しかった。
昼食は徒歩5分のひろめ市場で。真昼間からこんなに生ニンニク食べていいのだろうか。
「いいのだ!」 許しゅ!
誘惑に勝てず、ニンニクてんこ盛りの鰹のたたきを完食した。
「むちゃくちゃ旨かった」 ノリのてんぷら♪
(つづく)
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