国指定重要文化財 高知城
℡)088-824-5701
往訪日:2023年11月23日
所在地:高知県高知市丸の内1-2-1
開館時間:9時~17時
(12月26日~1月1日以外無休)
見学料:420円(18歳未満無料)
※高知城歴史博物館とのセットチケットあり
アクセス:JR高知駅から土佐電経由15分
駐車場:有(65台)最初1時間:370円+30分(110円)追加
《国宝に返り咲いて欲しい名城》
ひつぞうです。昨年11月末に四連休を取って、この年二回目の高知旅行に出かけました。まず訪れたのは天下の名城、高知城。以下、往訪記です。
★ ★ ★
この日、午前四時に大阪の仮宅をマイカーで出発した。夜の明石海峡大橋を渡り、白みゆく鳴門の海を越えて、徳島自動車道経由で高知市内に向かった。県境のトンネルを越えて立川SAで休憩すると、山間の冷え込んだ空気に秋の深まりを感じない訳にはいかなかった。
午前8時30分。頃良いタイミングで高知城東側の有料駐車場に到着。7時30分から利用できるらしい。
まずは大手門に向かう。見学は午前9時からのはずだが、どんどん団体客が入っていく。
「もう入れるみたいだにゃ」
公園だしね。
なにかイベントが開催されているらしい。ちょっと邪魔。撮りたいのはこれじゃない。右の石碑。
「国宝って書いてある」
高知城は国宝じゃないよ。現存する国宝天守閣は五つしかないでしょ。
「んと、犬山城、松本城、彦根城に松江城と…高知城じゃね?」
姫路城でしょ。世界遺産だし。
「あれ?なんで?国宝って書いてあるよ」
国宝保存法から文化財保護法に法律が変わって、名義上“格下げ”になったんだよ。だからと言って価値は変わらない。松江城も2015年に国宝に返り咲いたばかり。高知城も可能性はあるよね。
「石垣に文字が彫られているにゃ」
ウ、ヱ、ケ、シの四文字があるんだよね。「ウ」はかなり風化していて判りづらい。名古屋城には納めた藩の記号が記されているけど。ここは四文字だけだし…刻印の意味は不明。
追手門を潜るとまず銅像が見えてくる。
制作者は本山白雲(1871-1952)。高知県宿毛市出身の彫刻家で、篤志家の援助を受けつつ、東京美術学校で高村光雲の弟子となったそうだ。桂浜の坂本龍馬像も白雲の作。写実的で人物の篤実さがよく表れている。英傑揃いの土佐。やはり人気は坂本龍馬と板垣退助だ。
「維新の立役者って土佐以外にもいるよね」
肥前の大隈重信は(九州人らしく)頑固者の超短気だし、薩摩の西郷隆盛は悲運の愛国者、大久保重信は冷徹な実利主義者のイメージが伴う。しかし、共通しているのは、皆、真剣に国運を案じ、新しい国家を造ろうと考えたことだ。だからこそ暗殺やテロ攻撃を受けている。つい100年前まで政治家は命がけだったんだ。
「オサルチは歴史は苦手だのー」 パパリンは高知出身だけど
時間が早いからまだ観光客も疎ら。
杉の段だ。石段の幅には工夫があって(敵の襲撃を考慮して)登りにくく下りやすい設計なっている。
「確かに歩幅があわん」 歩きにくーい
登山道の木道と一緒だね。
天守が見えてきた。
鉄門跡を登る。
三の丸を過ぎて一気に二の丸へ。
詰門を通る。藩政時代には橋廊下と言われた。二階は家老や老中の詰め所だった。この日はありし日の高知城の写真が展示されていた。
1963年7月の新聞写真から。車が追手門の前を走っていたんだね。この頃から乗り入れは禁止された。
いよいよ天守閣へ。高知城は中層に唐破風を戴く望楼型天守という様式。
「犬山城に似ているにゃ」
9時前だけどお客をいれていた。連休だから?
明治6(1873)年に公園として存続することを明治政府が許可。天守は咸臨閣、本丸御殿は懐徳館と命名された。とりわけ本丸御殿が残るのは高知城と川越城のみで、大変貴重な遺構だ。ちなみにこの揮毫は追手家、山内豊章の書。
幾つか遺構が陳列されている。三の丸の欄間で“土佐の甚五郎”と謳われた武市高朋(甚七)(1722-1776)の作。
割と素朴な鑿跡。慈姑と水鳥がモチーフ。
「クワイの実はないのち?」
水中はデザインされてないみたい。
当主・山内家の家紋。明治の政商・岩崎彌太郎が、この「三つ柏」と自らの家紋「三階菱」を融合して三菱合資会社のスリーダイヤを考案したのは有名な話。
立派な書院造。欄間のデザインが大胆でアバンギャルドな印象。
御茶所。秀吉の時代に茶の湯は広く大名に浸透した。
「どんどん流しゅ」
最奥が上段の間。藩主の応接間で一段高い。
「穴が開いているにゃ」
物見窓といって敵を広く監視する工夫だそうだ。
この欄間も変わっている。竹の節欄間といって玉縁の下のブレース状の部材を襷と呼ぶ。
「竹の節はどこよ」?
両サイドが竹の節っぽくなっているでしょ。
帳台構え。裏側が武者返しになっていて、有事には護衛の武士が飛び出す仕掛け。
見応えるね。よく残したものだよ。
床の間に飾られているのは15代藩主、山内容堂の詩書(複製)。
墨江晩望白帆軽月
在待知山上清忽聴前
汀水禽噪禽元是
負都名
夕暮曲 土佐侯円生
酒と漢詩を好んだ容堂は鯨海酔侯として親しまれた。因みに高知の銘酒《酔鯨》はここからきている。
ではいよいよ天守へ。
「行こうぜ」
敵を攻撃するやつだね。
「ふむふむ」 家紋つきの瓦ね
内部は三層六階建て。階段で上っていくよ。
二階へ。
模型で高知城の城郭全体を確認。
内部構造はこんな感じ。土佐漆喰という石灰石に塩を混ぜて焼成したのちに発酵した藁を混ぜたもので仕上げている。かなり頑丈になるらしい。
「高知は颱風銀座だしの」
そういうことよ。
三階にあがってきた。更に四階へ。他の客が入らない瞬間を狙って撮っているだけで、実際はすごい客の数。早めの往訪がお薦め。
四階では近年の高欄の修復状況を説明。戦災こそ免れたものの、1946(昭和21)年12月のに南海トラフ地震によって多大な被害をうけた。1948(昭和23)年から11年の歳月を費やして、昭和の大修理を行っている。
五階は(現存12天守以外も含めた)全国の天守の説明。大政奉還時に約200あった天守も、その殆どが政治的役割を終えて廃城になっている。
いよいよ最上階へ。
望楼は狭い。廻り縁に沿って見学しよう。落ちないようにね!
まずは北側。三の丸と二の丸方面。
そして南西方向。
鯱と梲の遺構。
北東方向。高知駅が見えるはずなんだけど…。しかし高欄低い…。
手前は追加された補助手摺。擬宝珠つきの高欄こそ、初代、山内一豊(やまうち・かつとよ)(1545-1605)が家康の許しを得て築造した自慢の黒漆の高欄。江戸幕府は他の大名が城を豪華に装飾することを禁じたからね。この漆は32の工程を要する超贅沢品。
ちなみに僕らが学生の頃は「やまのうち・かずとよ」と教えられたけれど、最新の研究では「やまうち・かつとよ」が正しいんだって。
「歴史はどんどん変わるからにゃ」 なにかなんだかもう
もう飽きたらしい。
帰りは三の丸経由で戻った。
ウロコ雲の美しい秋晴れの天気になった。
明治の一般公開の際に納められた遺物の殆どが高知城歴史博物館に保存されている。折角なので寄ることにした。
「チケットお得だし」 ヒツがどーしても行くっていうし
(つづく)
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