名建築シリーズ41
鎌倉市 吉屋信子記念館(旧 吉屋信子邸)
℡)0467‐61‐3912
往訪日:2023年11月19日
所在地:神奈川県鎌倉市長谷1‐3‐6
一般公開:HPで要確認
GW(4月29日~5月5日)
5月、6月、10月、11月の土日
6月、10月、11月の1~3日
開館時間:10時~15時45分
拝観料:無料
アクセス:江ノ電・由比ヶ浜駅から徒歩7分
■設計:吉田五十八
■施工:水澤工務店
■竣工:1962年
■登録有形文化財(2017年)
※写真撮影(一部資料を除き)OKです
《この網代天井にモダン数寄屋を見る》
ひつぞうです。鎌倉文化逍遥の二日目に、吉屋信子記念館を訪ねました。少女小説の大家として今でも読み継がれる作家です(恥ずかしながら一作も読んでいませんが)。ここは信子が晩年を過ごした個人宅で、現在、鎌倉市が記念館として管理しています。また、現代数寄屋建築の大家・吉田五十八(よしだ・いそや)設計の名建築でもあります。以下、往訪記です。
★ ★ ★
そこはかいひん荘鎌倉から徒歩10分ほどの距離だった。表通りからひとつ裏道に入る。すると既に一人の男性が開門を待っていた。その様子から察するに文学散歩ではない。明らかに建築探偵。そのうち(仲間なのだろう)ひとりまたひとりと集まり、賑やかに挨拶を交わし始めた。どうやら大学の研究者らしい。
「思わぬ同行者が現れたにゃ」
まさか、こんなレアスポットで団体とぶつかるとは…間が悪い。
「いつものことだにゃ」
新潟生まれの吉屋信子は父親の任地の栃木高等女学校に進学。そこで文学に目覚める。想いは篤く、懸賞小説に投稿を続け、少女小説でデビュー。1919年の懸賞長編小説『地の果まで』で認められた。その後、間もなく門馬千代と出逢い、生涯のパートナーとなる。
吉屋信子(1896-1973)
まさにモボモガの最前線で活躍し、まだLGBTの理解もない時代に、公けに同性愛をテーマに作品を描いたことは特筆すべきだろう。
僕にとって吉屋先生のイメージは、おかっぱ頭とパンツルック。どこか晩年の藤田嗣治に似ている。それもそのはず。藤田も若い頃はモボの代表だった。ということで、小説はおいおい読むとして、まずは建築である。
癌を患った信子は1973年7月11日に鎌倉の恵風園病院で亡くなった。享年77歳。墓所は大仏で有名な高徳院にある。その後「自分の得たものは社会に還元し、住居は記念館のような形で残してほしい」と言葉を遺した。その遺志を容れた鎌倉市は、学習施設として、1974(昭和49)年に一般公開を始める。
「売却されるより後世に残るしの」 ええことや
時を経て、2017年に建物、塀、門が国の登録有形文化財に指定された。すべて生前交流のあった建築家・吉田五十八の設計である。
★ ★ ★
吉田五十八(1894-1974)。モダン数寄屋の代表的建築家。東京美術学校卒。その出自からして構造系ではなく意匠系だったのだろう。しかも師匠はあの岡田信一郎。実は吉田のスタートは(当時の流行に漏れず)ヨーロッパモダニズムだった。ところが、欧州留学中に伝統建築に触れて、ベクトルは別方向に向かう。それが日本の数寄屋建築だった。
信子と吉田の縁は、1935(昭和10)年に東京牛込の別宅を依頼したのが始まり。その後、終の棲家として、ここ由比ヶ浜に「奈良の尼寺のように」という希望を託し、設計が進められた。だが、厳密にはリフォーム。元の家主が浅草の出という縁で購入を決めたという。
10時ちょうどに開門。同年代と思しき建築探偵団とともに入場。
管理人はボランティアの鎌倉マダム二名。聞けば無料とか。知らなかった…。寄附募ればいいのに。それとも故人の遺志なのだろうか。
主屋根の下に張り出した銅板葺きの土庇(どびさし)は吉田特有の意匠。逆に玄関は、やはり吉田イズムの(壁の中に引き込む)引き込み戸ではなく普通の引き戸。元の構造が拘束しているのだろう。
10㍍山側に移築したため前庭が広い。
「リフォームと云っても殆ど再築だの」
主屋根の勾配も既存家屋をそのまま利用。そのため、例えば代表作のひとつ、旧猪俣邸(東京都)にみられる一文字瓦の水平勾配はここにはない。突き出した戸袋もやや無粋。むしろ、そのリフォームの冴えを鑑賞するべきだろう。
まず玄関から。天井は黒褐色の杉の化粧梁と、白色塗料を透かした杢板がメリハリを効かしている。旅館建築の和モダンテイストの源流だ。
「今では普通だの」
続く応接室。ここも天井に注目しよう。この斜めに交錯した勾配付きの網代格子。吉田苦心の作だ。
「左の梁にノコギリで切られた跡があるにゃ」
表に広縁があったのを潰してひと間に広げたらしい。空間を広く取る工夫が随所に。
ここで作家仲間や編集者と打ち合わせしたのだろう。
鴨居や長押が省略されて、襖の開口部が大きく取られている。
(扉で閉鎖されているが)対面式の台所手前の部屋。
テーブルと椅子も吉田のデザインだよ。
続く和室は一段高くなっている。
「バリアフリーじゃないね」
和室に座る人と応接室のソファに座る人の視線が水平になる工夫なんだって。
著作がたくさん。
床柱や長押、違い棚。なんにもないでしょ。この床の間。
「これが吉田五十八の特徴なんでしょ」
そうです。
津田清楓の掛け軸。信子の美意識だろう。
中村貞以の挿絵。
和室の天井は紙貼りボードと吹き寄せの棹縁が水平に並ぶ。格子状にするのが一般的だが、シンプルさが身上の吉田イズム。遺憾なく発揮されている。
次は書斎。天井は採光が施されている。また机正面の障子の下部に、雪見障子のように開口できる工夫も。加えて蔵書を納める本棚は扉付きの作りつけ。これは愛書家にはたまらない。
「机も作りつけだの」 張り出してるもん
一番奥が寝室。天井はモダンな船底天井。この部屋、どこが奇妙に思わない?
「天井に照明がないにゃ!」
正解。飽くまで窓の自然光と作り付けのスタンドの光だけで休めるような工夫なんだって。この状態では判らないが、雨戸も夢想窓になっているんだよ。
と観察を続けていると、見学者の大半が大学の建築家集団ということで、気をよくした管理人さんが普段は立ち入り不許可の台所に入れてくれた。一緒にどうぞと言われて、サルヒツジも紛れて侵入。
なるほど。勝手口まで導線が繋がっているんだ。
この時代にシステムキッチンというのは凄い。ということで、大層勉強になった。
★ ★ ★
吉屋信子は引っ越し魔で、この頃、牛込に起居していた。交流した文学者たちも今となっては錚々たる顔ぶれ。真杉静枝、関露、三宅艶子あたりは今では殆ど読まれなくなったが、いずれも当時はベストセラー作家だった。それ以外は今でも書店の文庫コーナーに君臨している。
こちらは与謝野晶子と並ぶ信子。与謝野先生も大柄だったが、それ以上に大きい。
「ちょっと外国人っぽい風貌だの」
新聞小説『ときの声』の原稿。
先生愛用の辞林。メモが記されているので読んでみる。
“大正八年十二月廿四日 大阪朝日新聞の懸賞長編小説(地の果まで)当選の報を得て 其の近き日これを当時居住せし宇都宮の書店にて求めしもの 今この書ながくわが机辺に仕えて老ゆ 新しき廣辞林と交代す その労を謝し記念す 昭和六年十月廿七日 信子”
つまり実質的な職業作家となった年に奮発して購入した辞林がボロボロになったので、広辞林に買い替えるけど、労いの気持ちを込めて記念に残すと云ったわけだ。12年でこの状態。Googleもない時代だ。いかに勉強家だったがが判る。
これにて鎌倉文化逍遥は終わり。少し移動して茅ヶ崎の名店でランチすることに。
「予約取るの大変だった」
(つづく)
ご訪問ありがとうございます。