旅の思い出「岩手県立美術館」(岩手県・盛岡市)② | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

《街の青、雑踏の青》

 

ひつぞうです。岩手県立美術館の続篇②です。

 

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いよいよ萬鐵五郎だ。

 

 

東和町の萬鐵五郎記念美術館を除いて、これだけの数を鑑賞できる場所はないだろう。展示スペースにゆとりがあるのも魅力。

 

★ ★ ★

 

チョットだけおサル向けに解説。

 

(茅ヶ崎海岸で療養中の萬鐵五郎)

 

萬鐵五郎(1885-1927)。岩手県出身の洋画家。東京美術学校卒。後期印象派、フォービスムなど最先端の技法を渉猟したのちキュビスム研究に傾倒。《もたれて立つ人》で注目を浴びる。将来を嘱望されながら41歳の若さで亡くなった。代表作《裸体美人》など。

 

萬鐵五郎は神童だった。地元の土沢尋常高等小学校を首席で卒業。上京して早稲田中学に入学すると、当時大ヒット中の大下藤次郎の指南書『水彩画の栞』に感銘をうけて画を始める。凝り性で物怖じしない性格だったのだろう。大胆にも大下本人を訪ねている。その後、白馬会菊坂研究所で腕を磨いた。20歳頃の話だ。

 

《静物(コップとみかん)》1905(明治38)年 油彩・厚紙

 

この静物画はその頃の作品。先に“腋毛”や“キュビスム”で萬になじんだ眼には奇異に映るほど端正。

 

《婦人像》1910(明治43)年

 

モデルは前年結婚した夫人のよ志。腋毛を大胆に開陳した重要文化財《裸体夫人》のモデルでもある。

 

(参考)今年開催の企画展「重要文化財の秘密」より

 

「イヤだったろーにゃー」サル

 

好きにしてって思ったらしいよ。

 

でも、こんな外光派風の作品も描いていたのだなあと感懐深かった。この二年後に師匠・黒田清輝に反旗を翻してフォービスムに走ったのは周知の事実。

 

「おかげで成績どんジリになったんだよにゃ」サル

 

そう。首席入学なのに、卒業はビリから三番目。親分に喧嘩を売ったわけだしね。

 

《女の顔(ボアの女)》1912(大正元)年

 

それでも自分が正しいと思ったら突っ走る。それもこれも妻という理解者がいたから可能だった。この《ボアの女》は《裸体美人》と同年の作品だ。どことなくゴッホ風。とにかく“最新”と聞けば何でも試したかったのだろう。

 

「妻の理解は大事よ」サル

 

《静物(噴霧器)》1912(大正元)年

 

これこそ萬の色。萬レッドだ。ちなみに上段の《ボアの女》の中にこの絵が描かれている。

 

《赤い目の自画像》1913(大正2)年

 

教科書でおなじみの自画像だ。

 

「めっちゃ暗くね?」サル

 

美校卒業後は岸田劉生高村光太郎たちが発起人となったヒュウザン会に所属。新しい表現を模索する団体だったので、萬も張り切ったのだろう。目まぐるしく作風が変わるんだ。このあたり、マティスを髣髴とするね。

 

《風景・丁字路》1913(大正2)年

 

同じ年の風景画。全然作風が違うでしょ。

 

「ホントだにゃ」サル

 

しかし、実生活では器用に渡り合えなかった。家庭と画業の両立に苦しみ、屡々体調を崩すようになるんだ。そのため郷里と東京を家族ぐるみで行ったり来たり。

 

「奥さんが立派だったんだにゃ」サル

 

らしいよ。

 

《筆立のある静物》1917(大正6)年

 

《もたれて立つ人》と同じ年の静物画。様々なタッチを足したり引いたり。結果的には萬でしかなしえない唯一無二の作風になっている。この後、絶不調に陥り、1919年に茅ヶ崎に転地療養することになる。茅ヶ崎海岸ゆかりの絵が多いのはそのためだ。

 

《少女(校服のとみ子)》1923(大正12)年

 

春陽会の創設に力をそそぎ、南画研究を始めた頃。

 

「ずいぶん落ち着いた画風になったのー」サル

 

《柳島風景》1924(大正13)年

 

茅ヶ崎近傍の柳島の風景を描いている。構図に南画の影響を感じる。

 

《裸婦(宝珠をもつ人)》1927(昭和2)年

 

亡くなった年の作品。余白が多く、一目で未完成と判るが、量感と勢いを感じる。完成していたら立派な作品になっていたことだろう。萬は結核にやられて41歳でこの世を去った。作品もさることながら、生きざまにおいても興味の尽きない画家だった。

 

次は松本竣介だ。

 

 

社会人になって間もない頃に、僕はちょっとした不注意から、左手の指の第一関節から先をほぼ断裂する大怪我を負った。縫合手術ののち、暫くベッドで大人しくするしかなかった。その時に宇佐美承著『求道の画家-松本竣介』(1992年)を手にして、松本に対して親近感を抱くようになった。

 

★ ★ ★

 

 

松本竣介(1912-1948)。東京生まれ、岩手育ちの洋画家。太平洋画会研究所で腕を磨く。青を基調とした《街》シリーズで注目を浴びる。結核に倒れる36年の生涯のなかで、目まぐるしく画風を変えて自らの絵画を追求した。その意味で萬鐵五郎に似ている。

 

《山景(岩手山)》1928(昭和3)年

 

松本16歳の作品。松本もまた岩手師範付属小学校を首席で卒業する神童だった。

 

「キミは本当に神童ってコトバが好きだにゃ」サル

 

だが、盛岡中学入学の際に脳髄膜炎を発症。手当が遅れて聴力を失ってしまう。僕自身幼い頃に発症経験があるので判るが、もう寝ていられない程の激しい頭痛で、背骨から髄液を抽出して検査しないと判らない恐ろしいウイルス性の疾患だ。両親に苦痛を訴えたものの、唯の熱だと放置された。今思えば恐ろしい。(あまりにもおかしいと祖父母が意見して無事病院送りになった)

 

大怪我で片手の自由を奪われた僕は、難聴というハンディキャップに負けず、画業に邁進した松本の人生を追体験すべく、この評伝を貪り読んだ記憶がある。

 

「覚えているの?」サル

 

それがまったく。哀しいくらいに。

 

《有楽町駅附近》1936(昭和11)年 油彩・板に紙

 

二十代の頃はルオーばりの輪郭線の太い風景画を続けて発表。1935年発表の《建物》二科展初入選を果たした。その会場に運命の出逢いとなる画家の作品があった。野田英夫だった。

 

(参考作品)

野田英夫《都会》1935年 教科書にも出てくる名作

 

大いに感化をうけたものの、野田は1939年に脳腫瘍で急逝。遺志を継ぐかのように画風を大きく変えて、松本は作品を発表していく。

 

《建物と人》1939(昭和14)年 油彩・板

 

都市と群像。線は限りなく細くなり、混ざり合うかのような色調。そして全体を松本でしか出せない青が覆う。

 

《序説》1939(昭和14)年

 

この年、松本は長男を授かった。左下の男性は自画像といわれる。どこか誇らしげで充実感のあるタッチ。珍しく《序説》とタイトルまで書きこまれている。家長としての宣言のようにも取れる。

 

《黒い花》1940(昭和15)年

 

赤を主体にした作品は初めて鑑賞した。

 

《郊外風景》1940(昭和15)年

 

このスタイルは1940年頃まで、様々な工夫と実験を重ねながら続いた。《郊外風景》はそれまで特徴的だった輪郭線を排除している。

 

 

そして、切り絵のような面構成が顕著になっている。

 

《盛岡風景》1941(昭和16)年

 

10年ぶりに帰省した折のスケッチが元になった作品。手前には野球場とスコアカード。奥には測候所。幼き日の松本は、この測候所の傍で暮らしたそうだ。

 

「思い出の場所なのね」サル

 

《人物(黒いコート)》1942(昭和17)年 鉛筆・木炭・墨・コンテ、紙

 

こんな絵も描いていたのか。驚いてしまった。

 

ちょうどこの頃、藤田嗣治の技法“乳白色の肌”を盛んに研究している。油彩ではないが、面相筆で描いたような人物の表情やグローブの輪郭線、墨で施した暈しなど、随所にその成果を看守することができる。

 

「うむ。サルでも判った」サル

 

それまで群像として描かれた人物の滲むような笑顔は消えさり、視線は冷たく凍てついたようである。なによりもコンテと木炭中心に仕上げられた白と黒の強烈なコントラストは、戦争に向かう時代背景も反映してか、あまりに冷徹だ。

 

これ以降も目まぐるしい作風の変転が続いていく。

 

《汽車》1948(昭和32)年頃

 

最晩年の作は面的構成だけの抽象化の進んだ画風に変わっていた。1948年の年明け間もない頃、松本は真剣にパリ移住を考え、夫人に相談までしている。だが、みるみる容体は悪化。6月7日に還らぬ人となった。享年36歳。死因は結核。余りにも早すぎる死だった。

 

「みんな結核なんだ」サル

 

次は舟越保武のコーナー。

 

 

なんだか教会みたいね。

 

《聖セシリア》1980(昭和55)年 砂岩(諫早石)

 

舟越保武といえばこれら清廉な女性像。

 

《聖ベロニカ》1986(昭和61)年 砂岩(諫早石)

 

一般的な感覚としてはブロンズ作家のイメージがあるが、ライバルかつ同志だった佐藤忠良が一貫してブロンズ制作を追求したのに対して、保武先生は石彫の第一人者として新制作派協会を牽引した。

 

《聖クララ》1975‐1984(昭和50‐59)年 鉛筆、紙

 

スケッチも美しい。妻の道子さんとの間に六人の子供を授かったが、長男を喪い、それ以降、カトリックに帰依したという。聖人、聖女たちの表情が些か憂いを帯びているのはそのためだろうか。

 

《青い魚》1958(昭和33)年

 

実はこうした意匠性の高い作品もある。胴のあたりに「やがて浮子見えずふりむけば月見草」の文字が読める。保武先生は大の釣り好きだったらしい。

 

 

宗教性の高い作品の一群だ。

 

《聖サカキバラ、聖ミゲル、聖ブランコ》1962(昭和37)年 FRP

 

長崎26殉教者記念像のうち、三体をFRPで再制作したもの。列聖100周年を記念して記念碑が制作された。このFRP製は長い間、ご本人が傍に置いたものだそうだ。それだけ神聖な気持ちで制作したのだろうね。

 

《原の城》1971(昭和46)年 ブロンズ

 

キリシタン武将の亡霊を表現。異色作だ。

 

《聖マリア・マグダレナ》1984(昭和60)年

 

「美しいにゃ」サル

 

ここからは年代順に素材を切り口に人物の表現を観ていこう。

 

《道子》1940(昭和15)年頃 ブロンズ

 

道子さんがモデルのブロンズ。24歳頃だろう。若い女性の瑞々しい肌。やや憂いを帯びた表情。素材の質感にあわせて彫刻の表現が自在に変化する。

 

《婦人胸像》1941(昭和16)年 大理石(紅霰)

 

これは紅霰と呼ばれる赤い鉱物を含んだ大理石だ。観れば判るが結晶が大きく、石彫には難しい。それを敢えて選んだ。結果的に温かい質感に仕上がり、胸部や頭髪の粗いタッチと好対照をなしている。

 

《R嬢》1956(昭和31)年 砂岩

 

砂岩も保武先生の得意な素材だろう。敢えて粗く仕上げることで、印象派絵画のような肌合いや輪郭線が可能になっている。

 

《LOLA》1972(昭和47)年 大理石

 

白大理石になると艶やかさでは比類ない質感に。モデルはスペインのセビーリャを訪ねた際に親しくなった経済学者の娘さん。スケッチや写真から彫刻を起こしていくのが先生のスタイル。なので、少し理想化される要素もあるのだろう。スペイン人よりも東洋人のような柔和な骨格のように“翻訳”されているように感じた。素敵な作品だった。

 

最後に特に印象に残った作品を。

 

「全然これまでと違う!」サル

 

《ゴルゴタ》1989(昭和64)年 ブロンズ

 

まるでロダンばりの強烈なタッチだよね。

 

実は1987年に脳梗塞の後遺症で、左半身の自由を失った。しかし、不屈の精神で、その二年後に左手でこの作品を造りあげたそうだ。捻った指の痕が残っていて、制作に賭ける執念を感じた。

 

「いい作品ばかりだったにゃ」サル

 

投宿の時間の限界まで見切った感じ(笑)。

 

最後に。

 

吉田清志《輝く山》1997(平成9)年 油彩

 

「山だにゃ」サル

 

何処か判る?

 

「判らん」サル 訊くだけムダ

 

前穂高岳だよ。

 

「長いこといっとらんしにゃ」サル

 

退いてみると写実的だけど。

 

 

近くで見るとモザイク画みたいだ。吉田清志(1928‐2010)は盛岡出身で東京藝大卒業後に梅原龍三郎に師事した洋画家で多くの山の絵を描いた。とりわけ穂高連峰が好きだったそうだ。

 

最後に屋外の立体彫刻で終わり。

 

「まだあるんか!」サル もう行こうよー、温泉!

 

土谷武(1926-2004)《鉄と石》1972(昭和47)年 軟鋼、白花崗岩

 

「なにこれ?」サル

 

オブジェだよ。よく見て。花崗岩のブロックが鉄板の先で浮いているでしょ。

 

「だから?」サル

 

薄っぺらい板が巨大な花崗岩を支えているところに見えない力を感じない?

 

「感じない!」サル

 

面白いのに。土谷武は京都の清水焼の窯元の家系に生まれている。その後、名門、京都市立美術工芸学校を卒業して、彫刻家の道に進むんだ。東京での創作活動のなかで新制作派協会の柳原義達と親交を結んだ。後年は複数の大学で後進育成に励み、戦後の抽象彫刻に大きな足跡を残したそうだ。

 

 

すでにおサルの姿はなかった。そして、空はますます暗雲が垂れ込め始めていた。晩秋の低気圧がもう花巻あたりを猛烈な雨で襲っていることが知れた。僕らは急いでその日の宿に向かうことにした。

 

「付き合いきれん!」サル

 

(つづく)

 

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