「ベルナール・ビュフェ美術館」毀誉褒貶に曝された生涯とは(静岡県・長泉町) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

ベルナール・ビュフェ美術館

℡)055‐986‐1300

 

往訪日:2023年7月16日

所在地:静岡県駿東郡長泉町東野クレマチスの丘515‐57

開館時間:(水木休館)

10:00~17:00(季節によります)

入館料:一般1,200円(企画内容で変わります) 

アクセス:東名高速・沼津ICから約15分

駐車場:約40台(トイレあり)

 

《昆虫好きに悪い人はいない…と思う》

※一部ネットより写真を拝借致しました。

 

ひつぞうです。ひと月ほど前に伊豆まで温泉旅行に出かけました。その途中、最近気になっているフランスの画家ベルナール・ビュフェの個人美術館に寄り道しました。ここは銀行家・岡野喜一郎氏の蒐集品をもとに1973年11月5日に開館。今年で創立50周年を迎えます。以下、往訪記です。

 

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ベルナール・ビュフェほど毀誉褒貶に曝された画家はいないかもしれない。第二次大戦後に彗星のごとく現れた若い才能は、瞬く間に名声を獲得し、そして、潮が引くようにその人気は凋落した。学生の頃は既に、ビュフェを褒め称えることは観る眼のなさを露呈するもののような扱いだった。その理由を自分自身で掘り下げるでもなく、僕はただビュフェの人と作品を迂回してきた気がする。

 

「ふむふむ」サル 長くなりそーね

 

その週末は二日ともに晴天のはずだった。渋滞を回避して、午前六時に自宅を飛び出した僕らは、夏山の色彩を帯び始めた丹沢山地を見遣りつつ直走り続けた。大井松田ICを過ぎたあたりで、季節違いの滝雲のような一団が、箱根の尾根を越えてくる様が眼に入った。前日までの湿った空気が富士山周辺に停滞したのだろう。残念ながら流れ去る気配はなかった。

 

沼津ICで降りて、暫く時間調整してクレマチスの丘を目指した。初めて訪れたのはちょうど20年前。日高シェフのイタリアン《マンジャペッシェ》が目的だった。あの頃は今以上に優れたシェフを追い求めていた。またイタリアの彫刻家ジュリアーノ・ヴァンジの個人美術館が開設されたばかりで、色鮮やかなクレマチスの花が咲き誇り、“丘”そのものに活気があった。残念ながら日高シェフは撤退。ヴァンジ彫刻美術館も存続の岐路にあるという話だった。

 

「時代は移り変わるんよ」サル

 

僕は繋ぎとめたい派。

 

 

駐車場に止めて、徒歩で百メートルほど歩いた。入り口は井上靖文学館と同じ場所だった。

 

 

ヨーロッパミヤマクワガタだろうか。早速、昆虫のオブジェが出迎えてくれた。ビュフェの昆虫好きは夙に知られている。

 

(並んで歩くベルナールとアナベル夫妻)

 

毎年恒例だった個人展覧会。1964年は《博物館》と銘打って、アトリエにあった木材や金属、そして布を使った昆虫のオブジェを発表。そのブロンズの複製が展示されている。

 

 

低層の雲に覆われた美術館は蒸し暑かった。それでも数組の客が開館待ちしていた。平日にもかかわらず。

 

 

最盛期は“ビュフェ現象”と呼ばれるほど人気を博した彼の絵は、喫茶店や公共施設のインテリアとして重宝された。その週、偶々仕事で訪れた京都北部の自治体の庁舎に、やはりその、やや色褪せた複製を見出したとき、因縁めいたものを感じた。

 

 

設立者、岡野喜一郎氏は駿河銀行(現スルガ銀行)創業者・岡野喜太郎翁から数えて三代目。優良経営の多い静岡の銀行らしく、堅調な経営で知られた(絵画とは関係ないので近年の事情はここでは詳述しない)。

 

混沌とした戦後社会に置かれた人間の不安を、巧みに捉えた年下の絵描きの作品は、過酷な戦場の記憶が離れない喜一郎氏の心を一瞬で捉えた。多くの作品を蒐集し、1973年の開館の折にはビュフェ本人を招き、二人の交友は長く続いたという。

 

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ここでいつものおさらいね。

 

「またきゃ」サル

 

 

ベルナール・ビュフェ(1928‐1999)。戦後フランスを代表する画家・版画家。工場経営者の家庭に生まれたのち、幼くして母を喪い、多感な時期をパリで過ごす。パリ国立芸術学校に進学。20歳でサン・プラシド画廊の批評家賞を受賞。天才画家として注目される。その後、自己模倣の批判に曝されながらも旺盛な創作活動を続けるが、晩年はパーキンソン病を患い、71歳で命を絶った。

 

★ ★ ★

 

この日は企画展《“ビュフェ・スタイル”とは何か》《いきもののかたち   /ビュフェの“自然誌博物館”》が開催中だった。常設も含めて非常に密度の濃い展示だが、前者は撮影禁止。なので数点に関して備忘録をしたためておきたい。

 

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経営者の息子で美男のビュフェの写真を見るたびに(戦後復興期とはいえ)なにが彼を孤独や不安に陥れたのかと、長らく不思議に思っていた。

 

17歳の若描きの作品がある。《ブルターニュの海》と題されたそれは、母親を過ごした思い出の風景。この年、その母を病で失った。間もなく学校を中退。バディニョール街で制作に打ち込み、二年後には公募展出品作《ケノアの風景》で批評家の注目を集めた。そして20歳を迎える6箇月前。《部屋の中の二人の男》で批評家賞を獲得したのは既に記したとおりだ。

 

《肘をつく男》 1947年

 

19歳の時の作品だ。代名詞ともいえるニードルで引っ掻いたような傷や、強烈な黒の輪郭線は目立っていない。画家本人と思しき青年はどこか虚ろな表情で、家具や調度の無機質なタッチと同化している。セピア色に統一された画面の、繊細な、いやむしろ神経質ともいえる筆の痕に、格闘する画家の姿をみたような気がした。良い絵だ。

 

《肉屋の少年》 1949年

 

《部屋の中の二人の男》もそうだが、この《肉屋の少年》にも、傷つきやすい、そして、虚無の仮面の裏に隠れた、強がりな青年を見た。色が少ないのは、物資難の時代に高価な絵の具を好き放題に使えないという背景もあっただろうが、個性を画策する意思の表れも見て取れる。その“繊細さ”にどことなく同性愛的なそれを感じてしまう。無根拠と誹られそうだが。

 

《ナンス》 1951年

 

人物画や静物画が引き合いに出されがちだが、こうした初期の風景画が好きだ。批評家はこうしたビュフェを愛したのだろう。まもなく作家ジャン・ジオノと親交を結ぶことになる。22歳の時だ。今では『木を植える男』一冊が知られるだけの、中央文壇と距離を置いた作家に、何を感じ、何を求めたのか。

 

「判んなーい」サル 訊かんといて

 

実父と疎遠な関係だったビュフェは、最大の理解者である母をなくし、理想の父をより強く求めるようになったのではないか。同性愛的と感じたのは、むしろ、父性を求める、いつまでも少年であり続ける丸裸な魂だったのかもしれない。

 

《サーカスパレード》 1955年

 

力強い輪郭と、様式化された人物の表情、そしてスクラッチされた線。30歳を目前にして、既にスタイルが完成されている。また、自らメイクして役を演じたこともある道化師は、特にビュフェが好んだモチーフだった。それは哀しみの象徴でもあり、表現者の象徴でもあった。

 

《ニューヨーク  ダウンタウン    ブロードウェイ》 1958年

 

1958年。30歳で大回顧展を開催。色数は増え、自信に満ちた線が目立つようになる。人気に比例して批判も集まるようになった。1956年に手に入れた(ルイ13世の居城だった)ラスク城の購入と派手な生活、マスコミへの露出など、作品以外への反感もあっただろう。

 

《えび》 1958年

 

ビュフェ現象はピークを迎えていた。喜一郎氏がビュフェの絵に出逢ったのがこの1958年。自己模倣に陥りつつある彼の前に現れた第二の“パパ”だった。ここから日本との関わりが始まる。

 

《テーブル、食 器》 1984年

 

色彩はますまず鮮やかに。線には一切の迷いもなく。

 

《東京の高速道路》や歌舞伎の《景清》など、日本に取材した作品も発表したが、いずれも借り物の印象がぬぐえない。独立不羈なイメージがつき纏う彼も、フランス・ハルスレンブラントデューラー、そしてクールベなど、実は古典的大家に多くを学んでいる。この頃の彼はどんな“次なる何か”を企図していたのだろう。

 

だが、一般の反応はマスプロダクトへの批判だった。ピカソしかり、レンブラントしかり、時代は違えど同傾向の画家は存在したし、必ずしも「多作=悪」ではない。仕事が早く、“端正”になるばかりの様式に世間は飽きてしまったのかもしれない。確かに、もがく心が失われれば、もはや画家ではなく、ただの職人になってしまう。

 

人生の最期にあって、その藻掻きが復活したのは皮肉だった。

 

《死16》 1999年

 

晩年はパーキンソン病に侵されて、絵筆の自由を奪われたが、執念でこの絵を描いた。その喘ぐような荒々しいマチエールこそビュフェだった。だが、失われたものを取り戻そうとした青年期とは違い、やや饒舌で過剰な画風は、失われまいと只管に抗っているようだった。しかし、抵抗の甲斐もなく、ビュフェは自ら命を絶った。享年71歳だった。

 

 

勲章を手に入れ、アカデミー会員として認められつつも、どこか孤独の影がつきまとった。彼が欲したもの。それは権威ではなく大衆の支持だったのではないだろうか。求め続けた大衆の支持を《大衆的》というレッテルによって奪われるという矛盾。しかし、A・ウォーホルがのちにビュフェの“オートメーション”に賛辞を贈ったことは見逃せない。2016年にパリで回顧展が開催されるまで、ビュフェの評価は止まった儘だったといえる。その意味では再評価はこれから。それまで遠く離れた極東の個人美術館が、彼への顕彰を続けた意義は大きい。

 

「以上、ヒツの大言壮語アワーですた」サル なげーよ

 

忘れちゃうんだよ。自分の感想なのに。

 

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続いて夏休み企画へ。こっちは判りやすいよ。

 

 

「判りやすくて良ーい」サル 難しすぎんだよ

 

《赤い昆虫》 1963年

 

どの昆虫をモデルにしたのか判らないそーな。作品中央にサインがあるのも普段と違うね。

 

 

このテナガカミキリではないかと言われているよ。英語で《道化師のカミキリムシ》という名前がある。道化師を好んだ画家にピッタリでしょ?

 

「気味わるーい」サル サルにはゴキブリと変わらん

 

じゃこれは?

 

《蝶》 1963年

 

説明にはゴライアストリバネアゲハとあったけど。個人的には蛇の目模様から推してタテハチョウの仲間だと思う。違う?

 

(ふじのくに地球環境史ミュージアムとの共催です)

 

この仲間には確かに尾状突起がないね。

 

「やっぱり気持ちわる~い」サル お腹がイモムシだよ

 

《馬の顎》 1970年

 

今回鑑賞した中では五本の指に入るくらい惹かれた。

 

「シュミ悪いのー」サル


線が活きていると思わない?

 

 

筆のタッチもよく残っている。ノリにノッて描いているのが判る。

 

 

実際はこんな感じ。

 

「実物のほうが滑稽だにゃ」サル

 

骨はそもそもが滑稽かつ美しい存在なんだってことを誰かが言っていたな。

 

「表面を覆っている肉が醜いって?」サル またー。話を難しくして~

 

《枝の上のフクロウ》 1987年

 

鳥も大好きだったんだね。

 

《海つばめ》 1963年

 

たくさんいろいろな鳥を描いている。

 

 

そもそも生き物すべてが好きだったって。

 

《スズメバチ》 1964年 リトグラフ

 

「ちょっとイメージが変わるにゃ」サル 優しいひとっぽい

 

《とんぼ》 1959年

 

昆虫好きに悪い人はいないよ。

 

 

昆虫も鳥も魚類もさ。形と色の多様性に満ちているでしょ。しかも生きていて動くし。好奇心の強い子供は「なんでこんなに形や色が違うんだろ」って思うんだよ。

 

《褐色の昆虫》 1963年

 

その博物学的興味を大人になっても失わない人たちが、研究者やアーティストになるんだと思う。

 

 

標本作りはあまり上手じゃなかったようだね。展足が不十分だから虫たちもちょっと可哀そう(笑)。

 

「男の子は残酷だにゃ」サル

 

僕もその口だったけど。小さい頃は。

 

 

これは1988年の来日の際に美術館に贈ったものだ。いい意味で、常に受け容れてくれる日本という国は、ビュフェにとって憩いの場所だったのかもしれない。

 

 

いや~楽しいよ。

 

「そりは良かった」サル

 

 

山も海も好きだったんだね。こうしてみると画家というより博物学者みたいだ。手塚治虫先生と似てる。

 

 

これをビュフェが描くとこうなる。

 

《蟹》 1963年

 

完全に同じじゃないから一層リアルなんだよ。ツメが美味そうだね。

 

「ボイルするだよ」サル

 

《魚》 1963年

 

「食べ方も上手だにゃ」サル 腹へってきたにゃ

 

モデルは標本でしょ。

 

《キツネ》 1987年

 

哺乳類の絵は珍しいね。ちょっと描き慣れしているけど。

 

 

ということで寄り道には余りある内容でした。アートファンは勿論、一般の観光客も満足できる隠れた名所かも。

 

 

隣接するショップでランチすることにした。

 

 

観光施設ということで、少し侮っていたけど、ここのカレー、コクがあって本当に辛い。スパイスの風味も抜群だ。子供だましのカレーではない。これを食べるためだけでも寄る価値ありだ。

 

「是非どうぞ」サル うんまいよ

 

ということで食事も済んだし、温泉宿を目指すことにした。沼津市内に降りると、ガスも晴れて真夏の空が待っていた。ちょっと暑すぎるけど…。

 

(つづく)

 

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