旅の思い出「堀辰雄文学記念館」(長野県・軽井沢) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

堀辰雄文学記念館

℡)0267‐45‐2050

 

往訪日:2023年4月28日

所在地:長野県北佐久郡軽井沢町追分662

開館時間:(水曜休館)9時~17時

参観料:一般400円 子供200円

駐車場:15台(道を挟んだ向かい側)

※NGと記されたもの以外は撮影OKです
 

《もう一度読み返せば何か判るかも…》

※肖像写真はネットからお借りしました

 

ひつぞうです。軽井沢旅行の一日目の訪問先は堀辰雄文学記念館でした。室生犀星、立原道造、川端康成、そして堀辰雄。軽井沢ゆかりの文人は枚挙に暇がありません。単なる避暑地ではなく、インスピレーションを与える場所として心を捉えたのでしょう。堀文学の良き読み手とはいえない僕にとって機会です。行くことにしました。

 

★ ★ ★

 

中学三年のとき、堀辰雄の『風立ちぬ』を読んだ。だが、何がいいのか判らなかった。若い男女が高原で知りあい、そのうち女は病魔に侵されて死ぬ。単純にいえばそんな話だ。ドキドキするような場面はなく、ただ淡々と会話が続く。物語のジャンル(例えば医療小説なら医療分野、時代小説なら考証学など)に身を置いた経験がなくても筋は理解できる。ただ、恋愛の機微だけはそうはいかない。つまり手に取るには早かった。

 

「そりゃそうやろ」サル ヒツジだからにゃ~

 

 

中山道と北国街道の分岐、追分の分去れ(わかされ)まで戻ってきた。標高の高い追分はまだ幾分桜の花が残っていたが、そこに混じる若葉の緑が、春と夏の境にあることを物語っていた。

 

 

ここから旧・中山道に入っていく。道沿いには静かな飲食店が点在するばかりで、仰々しい土産物屋など存在しない。その俗気のない佇まいが、穏やかな避暑地の気分に浸りたい者にちょうどよかった。

 

 

時刻は正午をまわったところ。駐車場には職員の車があるばかり。往訪者の姿はなかった。

 

ここでおサルのためのおさらい。

 

「うむ。ほとんど知らん」サル CDで名作アルバム聴いただけ

 

 

堀辰雄(1904-1953)。小説家。東京麹町に生まれる。複雑な幼少期の記憶はその後の作風にも影響を与えた。第一高校時代に知遇を得た終生の友・神西清の影響で文学を志し、東京帝大国文科を卒業後、フランス心理主義的作風の佳作を発表。のちに王朝文学にも傾倒するが、軽井沢転居後に結核が悪化。終焉の地となった。享年48歳。

 

堀といえばオールバックの若き肖像が一番に浮かぶが、僕はこの療養中の晩年の写真が好きだ。重い病に犯されながら、はにかむように笑みを浮かべる堀が。

 

 

入り口にはかつての追分本陣の裏門が設置されていた。明治天皇行幸の際にも利用された本陣は、明治26年の信越線開通に伴い、宿場としての役割を終える。その後、御代田の素封家・内堀家に払い下げられ、長らく大切に扱われてきた。再移築は平成18年3月とのことだ。

 

 

多恵夫人が植樹したカラマツと、犀星が贈った楓の並木が続く。木漏れ陽を浴びつつ記念館へ。

 

 

まずは本館(兼管理棟)で料金を払う。お手洗いはこの中しかない。敷地の中は堀が多恵夫人と晩年を過ごした邸宅跡だ。①常設展示室、②文学碑、③書庫、④旧堀邸、⑤本館という順序がお薦めらしい。

 

といいながら、適当に回ることにした。

 

 

本館(展示館)は堀ゆかりの作家・批評家のパネルと著作の展示だ。(個別の撮影はNG)

 

 

天気がいい。訪れるには最高の日和だった。

 

 

藤棚を前にした本宅で、病身の堀は晩年(S26年7月~S28年5月28日)を過ごした。僅か二年足らずではあったが、堀が求めた造りの本宅と書庫が並ぶ。

 

 

この窓辺に腰を下ろして、移りゆく追分の季節を感じたのだろう。

 

奥の掛け軸は完成祝いの川端康成の書で、籐椅子は女優・高峰三枝子さんの贈答品だ。

 

「高峰さんって二十四の瞳の?」サル

 

あれは高峰秀子さん。僕らの世代だとフルムーンのCMが記憶に残るね。

 

 

戦後は療養生活に専念するだけで、著述する体力もなく、読書が心の慰めだったらしい。

 

 

膨大な数の蔵書を納めるために別棟として書庫を建てた。竣工は堀の亡くなる10日前。病床から手鏡越しに完成を待ち侘びたそうだ。季節はちょうど今頃だった。

 

 

だが、完成を待たずして逝ってしまった。漱石、鏡花、そして芥川。敬愛する先輩作家の全集の他に、哲学、西洋文学、中国文学、老荘思想。そして人麻呂、実朝などの王朝文学。文学に捧げた生涯だった。

 

 

奥の木陰にあるのが文学碑だ。

 

 

白御影からなる矩形と円筒のモニュメント。堀の作品世界を投影したデザインらしい。平成13年建立。

 

 

石碑の後背では、まさにその馬酔木の花が今が盛りとばかりに咲いていた。

 

昭和18年の4月に堀夫妻は木曽路に遊んでいる。その時の心持ちを記した自筆の書だ。投宿した木曽福島の蔦屋旅館の主にせがまれて記したらしい。没後に多恵夫人によってこの一文が選ばれた。

 

春の大和に往って

馬酔木の花ざかり

を見ようとして途中

木曽路をまはって来

たら思ひがけず雪が

ふってゐた

 

昭和十八年四月十三日 堀 辰雄

 

この旅は名随筆『浄瑠璃寺の春』を生んだ。僕が「馬酔木」という花の存在と表記を覚えたのはこの随筆だった。高校三年の現代文の授業で老教師が静かに読みあげた言葉の全て。聞き入った記憶が今でも甦る。そして、その25年後におサルと一緒に春の浄瑠璃寺を訪ねた。

 

「そいそい」サル

 

 

さて最後は常設展示室(右端の建物)だ。かつての写真では背後の林は小さな幼木で、浅間山が綺麗に見えていた。この日も噴煙が棚引く女性的なシルエットがあった。

 

「こんな別荘が欲しい」サル 買って買って

 

連れてくるべきじゃなかったかも…あせ

 

 

ここは彫堀の死後、昭和48年に多恵夫人が建てた別荘だ。そして、平成22(2010)年に96歳で亡くなるまで、この一群の建物を守り続けた。ついこの間まで存命だったと知り、感慨深かった。一人っ子で児がなかった堀。だから直接知るひとは最早この世にいない。愛顧する読者も人生の先輩ばかり。既に活字の上の歴史になりつつある。

 

一番人出が期待できる連休にあっても閑散としていた。しかし、その方がいいのだろうと思った。

 

 

1993年に軽井沢町の管理で始まった当館は、軽井沢とそれを愛した芸術家の精神を確実に継承していくと思う。

 

 

堀の卒業論文は『芥川龍之介論』だった。今でもそうだと思うが、現代作家を研究対象にするのはこの世界では憚られる。なのに当時の流行作家を選んだというのがすごい。

 

 

母子二人で生きてきた堀から、関東大震災はその母を奪った。まだ19歳だった。進学した堀は人生の大転換を迎える。堀を軽井沢にいざなった犀星。英雄だった芥川。そして詩人・朔太郎。数学少年だった堀の魂を虜にし、文学に導いた巨星たちの存在だ。

 

 

帝大卒業後、作家生活を歩み始めた堀は、毎年のように軽井沢を訪れるようになる。そして30歳で矢野綾子と婚約。しかし、結核という病魔が婚約者を奪ってしまう。この出逢いと別離は代表作『風立ちぬ』へと昇華されるが、実は堀自身も大学卒業の年に肺を犯されていた。

 

 

堀は幾度か別荘を変えている。この四番目の別荘は現在、軽井沢高原文庫に移築保存されている。

 

「別荘買って!」サル

 

はいはい。

 

悲しい別れというのが堀文学の基調にある気がするが、四年後に共通の知人を介して多恵夫人と結婚。新しい生活が始まった。

 

 

追分測候所脇の野辺でヤギと戯れる堀夫妻。

 

「夫人ヤギにビビってない?」サル

 

都会のお嬢様だったからね。

 

 

夫人もまた、ここで変わらない追分の風景を眺めて過ごしたのだろう。

 

 

夫人と新居を構えたのは1938(昭和13)年。堀34歳。憧れ続けた軽井沢の地で執筆活動に没頭するが、ふと脇を見れば所在無げな夫人の姿があった。そこで堀はひとつ提案する。19世紀のウジェニー・ド・ゲランの日記を少しずつ翻訳してごらんと。

 

「誰それ?」サル

 

堀は19世紀フランスの詩人の作品を愛好したんだ。そのひとりにモーリス・ド・ゲランがいる。モーリスもまた結核で28歳の若さで夭折した詩人なんだけど、その姉が亡くなった弟に語りかける日記を書いたんだ。今では忘れられた存在だけど、美しい文章で知られる。ま、フランス語できないと味わえないけど。

 

「ふむふむ」サル

 

 

その後、堀は奈良、京都、木曽路など、古い街を訪ねながら、古典文学に傾倒していく。ちょうど戦争の足音が近づいてくる時代だ。

 

二階へ行ってみよう。

 

 

ここにはゆかりの品や、親しい作家からの書簡など(複製)が展示されている。

 

 

佐藤春夫(上段)と神西清(下段)の書簡だね。二人とも流麗で几帳面な文字で人柄を忍ばせるよ。

 

 

愛用のラジオ。

 

 

パイプを譲り合うというのはちょっと…。

 

「おサルもちょっと」サル

 

 

まだまだ描きたい作品の構想はあったが、病魔は堀の健康を蝕んでいった。

 

 

“夭折の作家”という誤った記憶が大学の頃まであった。『風立ちぬ』の物語と結核罹患という事実が、そういう思い込みを生んだのだろう。今回立ち寄って改めて知ったことは、夫人との生活が静かで満ち足りたもので、多くの別れに出会いながらも、作家・堀辰雄は常に前向きで笑うことを忘れなかったということだった。あの『浄瑠璃寺の春』で感じた、明るく、温かみのある印象こそ、堀の、夫人との生活で得た平安の表象だったのだろう。

 

「気がすんだか」サル

 

はい。もう堪能しました。

 

 

軽井沢の町は文学の痕跡が数多く残る。それを訪ね歩くのもいいかもしれない。

 

 

参観はここまで。少しゆかりの場所も歩いてみた。

 

 

曹洞宗の寺院・泉洞寺だ。記念館からは徒歩5分の距離。ここに堀が好んだ石仏があるんだよ。

 

「誰もいない」サル 静かだにゃ

 

おサル、騒々しいところ嫌いでしょ?

 

 

歯痛地蔵で知られる石仏だ。思うにこれ、半跏思惟像のヴァリエーションではないか。

 

 

今度は反対方向へ。

 

 

浅間神社だ。軽井沢で一番古い木造建築らしい。浅間山の噴火が収まることを祈願したらしいよ。

 

「そうなの」サル 知らなかったわ

 

あんまり興味ないみたいね。

 

 

立派な御堂で一礼。

 

 

最後に向かったのは追分宿の歴史を紹介する追分宿郷土館。文学館とチケット共通なので。

(ここは撮影NGです)

 

いろいろ勉強になった。書棚で埃を被っている、学生時代に買った新潮文庫の『大和路・信濃路』を読んでみようと頁を繰ったら、あまりに活字が小さくて読めなくなっていた…。登山も温泉も、そして読書にしても、可能なうちに、それがそこにあるうちに、こなしておいた方がいい。

 

このあと今宵の宿に向かった。

 

「どんなところか楽しみ~♪」サル そのためにヒツの酔狂につきあったし

 

(つづく)

 

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