「トキワ荘マンガミュージアム」で懐かしの昭和を満喫する(東京都) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

豊島区立トキワ荘マンガミュージアム

℡)03-6912-7706

 

往訪日:2021年9月4日

所在地:東京都豊島区南長崎3-9-22南長崎花咲公園内

開館時間:10時~18時(入館17時30分まで)

※事前予約制です

入館料:(企画展期間は有料)500円

駐車場:なし

アクセス:都営大江戸線「落合南長崎駅」より徒歩5分

 

≪倹しくとも希望に耀いていた四畳半≫

※多くの画像をネットをお借りいたしました。ご理解くださいませ。

 

こんばんは。ひつぞうです。先週末は漫画の聖地・トキワ荘マンガミュージアムを訪れました。漫画界の大御所がつどった伝説の場所です。普段であれば混雑必須ですが、現在は予約制なのでゆっくり見学することができました。

 

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トキワ荘は現在の東京都豊島区南長崎三丁目に、かつて存在した木造二階建てのアパートだった。雑誌『漫画少年』の編集者の紹介で手塚治虫が居住したことで、若い漫画家たちがつどうことになる。1982年(昭和57年)、老朽化を理由に取り壊されたものの復活を望む声も多く、跡地近傍の南長崎花咲公園に再建された。しかし、こけら落としには生憎のコロナ禍襲来。2020年7月のオープンから一年あまり待っての待望の往訪となった。

 

 

素晴らしいのは、写真や証言を頼りに、天井の合板の柄から欄干の色まで、図面もなしに当時そのままに再現していること、そして、やや草臥れたアパートの質感を出すためにウェザリングが克明に施されていることだ。

 

「トキワ荘の看板。もう錆びているにゃ」サル

 

それがウェザリングだって。

 

 

手塚先生が起居したのは14号室。一部で誤解されているが、決して手塚先生と、石ノ森章太郎藤子不二雄赤塚不二夫各先生が、長期間に渡って寄寓した訳ではない。手塚先生は棟上げ後の1953(昭和28年)から1954年(昭和29年)の僅か二年ほどしか暮らしていない。

 

手塚先生の並木ハウス引っ越しに合わせて、14号室に入居したのは藤子不二雄だった。当時、漫画家になるには雑誌社への持ち込みが主流。赤塚不二夫の自伝の、母親に伴われて新潟から出てきた話をよく覚えている。そんななか『漫画少年』は投稿によって将来の漫画家を発掘する画期的な雑誌だった。

 

 

時を経ずして新潟から赤塚先生、宮城からは石ノ森先生が上京。そして、兄貴分の寺田ヒロオ、アニメーション作家に転身する鈴木信一など錚々たる顔ぶれが集まった。鈴木先生は『オバQ』の“ラーメンの小池さん”のモデルとして知られる。僕ら世代にとってトキワ荘が印象深く記憶に刻まれているのは藤子不二雄Ⓐ先生の『まんが道』の存在が大きい。

 

「詳しいにゃ」サル

 

小さい頃は漫画家目指してたもん。

 

「暗いにゃ…」サル

 

なんでよ。立派な稼業だよ。

(というより絵以外に取り柄がなかったのだ。正直な話…)

 

 

これが伝説の共同便所。紅一点の水野英子先生。よくここで生きながらえましたね。かつて、編集者が原稿待ちしていると、なにやら砲弾でも落下するような音がしたという。「あれは何ですか」と問うと、相手をする赤塚先生は「あれはう●こが落ちる音ナノダ」と嘯いたかどうか知らないが事実らしい。

 

 

このように土管だけで二階のトイレと便槽が直結しているので、汲み取り後の“水層”の浅い状態だと衝撃音が凄まじかったらしい。(食事中の方すみません)

 

 

炊事場も昭和アルアルである。

 

「あったよ。実家にこんなクレンザー」サル

 

強者の赤塚先生は、銭湯に行く時間がない時は奥の洗い場で身体を洗っていたそうな。ま、先生の滅茶苦茶エピソードを知っている人には、全然フツーな挿話だけど。

 

 

さて。それではお部屋を拝見。

 

 

手塚先生と藤子Ⓐ先生が起居した14号室。

 

 

赤塚先生の16号室。天井をご覧ください。

 

 

保存されていた天井板の柄をコピー機で写し取ったもの。細部に亘って凝りまくっている。

 

 

よこたとくお先生の20号室。

 

今の若い人たちには馴染みが薄いかもしれない。かつて学研や小学館の伝記漫画や学習漫画で腕をふるった第一人者。赤塚先生風のナンセンス漫画の系譜に位置する。ご存命のおひとり。山根青鬼先生の『名探偵カゲマン』なんかも思い出す。よこた先生の部屋が一番昭和らしさを残している。ステレオ。映画のパンフレット。海外探偵小説。

 

 

最後の住人、山内ジョージ氏の20号室。山内氏は石ノ森先生のアシスタント出身。石ノ森先生は独立後も、この部屋に私物を置いていたそうだ。ここに陳列された映画パンフや文芸誌などもそうらしい。

 

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ここからエレベーターで1階に戻ると手塚先生のコーナーに。この日は企画展「トキワ荘と手塚治虫」が開催期間中だった。出世作の四コマ漫画『マアチャンの日記帳』から代表作『ジャングル大帝』まで原画が展示されていた。

 

 

同時に数本の連載を抱えて、二晩の徹夜は日常茶飯事だった。しかし、先生は筆の速さには自信があった(講演録『ぼくのマンガ人生』(岩波書店))。普通は下書きしてペン入れするが、先生は下書きしない。そして、直線に定規を使わない。その結果、生き生きした手塚漫画特有のタッチが生まれたのだろう。

 

代表作といえば『鉄腕アトム』だが、あの尖った髪型はどうやって考案されたか。先生は講演のなかでミッキーマウスに触発されたと云っている(事実それも正しい)が、フォルムそのものは風呂あがりの先生のくせ毛にヒントを得たとどこかで聞いた記憶がある。

 

 

また、アセチレン・ランプハム・エッグなどスターシステムのキャラクターは、幼い頃の観察に基づいているそうだ。

 

 

ヒゲオヤジは中学時代の友人宅のご隠居さんをデフォルメした一番古いキャラクターらしい。(『ぼくのマンガ人生』より)

 

手塚先生は元より絵は旨いのだが、一番の才能は観察力だと思う。それは幼い頃の昆虫や天体を愛好した科学少年としての一面、また、映画鑑賞や作文に興じた日々、それを許した両親の存在が、漫画家手塚治虫を可能にしたのだと。

 

「だんだん、いつもの脱線になってきたにゃ」サル

 

 

僕にとってベスト・オブ・テヅカは『ブラック・ジャック』。この14巻はリアルタイムで新刊で買った一冊。当初、版元の秋田書店はこの連載に期待していなかったそうだ。単行本も最初は「恐怖コミックス」と銘打っていた(のちにヒューマンコミックスに変わったけれど)。リアルなオペシーンは子供ながらに不気味だったが泣ける話が多かった。進学のたびに「もう漫画は封印する」といって全て古本屋に売り、受験が終われば買い直すという愚かな行為を、手塚漫画に関しては続けていた。

 

とりわけ記憶に残るのは「もらい水」というエピソード。

 

―朝顔に つるべとられて もらいみず―

 

江戸時代中期の歌人、加賀の千代女の名句である。このタイトルにどのような意味があるのか、もちろん当時の僕にはわからなかった。

 

小さな田舎の医院は常に病室が満杯。急患が運ばれる度に、医者の息子から「かあさんすまない」と言われる老母。そのたびに老母は嫌な顔をせずに知り合い宅を訪ね歩く。知人たちも老女を持て余して居留守を決め込んでいる。そんなとき、偶々通りがかったブラックジャックに「山小屋にでも泊まるので連れて行ってくれ」と願い出る。「バカはよしなさい」と止めるが老母は聞かない。そして、その夜大地震が襲う。BJは老母を案じて山小屋に向かう。万事休す。倒壊した小屋に挟まれて、老母は虫の息だった。BJは息子の許に老母を運ぶ。今なら助かる。しかし、突きつけられた高額なオペ代に医者は憤る。BJはいう。「いやならいいんだ。わたしなら母親の値段は100億円だって安いもんだがね」。

 

ここには、手塚先生の真の理解者である、貞淑な母堂の姿が重ねられているように思う。

 

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手塚先生が終生メッセージとして送り続けたのは「絆ある者への愛」「生命の尊厳」「科学万能主義への懐疑」。そして、僕らに遺したのは「一度きりの人生をしっかり生きる」ということだ。手塚先生には漫画以外の自著はほとんど存在しない。逆に言えば後世に残そうとしたメッセージはすべて漫画として描かれていると言っていいだろう。

 

(企画展で『ジャングル大帝』幻の最終回の原画を観ることができます)

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。