小山清著『落穂拾い・聖アンデルセン』を読む | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうの偏愛的読書【27】

小山清著『落穂拾い・聖アンデルセン』(新潮文庫)

(1955年)

 

(写真は一部を除いてネットより拝借しました)

※ずっとずっと備忘録。

 

こんばんは。ひつぞうです。今夜の一冊は一瞬の煌めきを残して去った寡作の作家・小山清の作品集です。甘えん坊の流行作家・太宰治にも私淑した弟子がいました。『オリンポスの果実』で知られる田中英光。牛のような巨躯のロマンチストですね。そしてもうひとりが珠玉の私小説を得意とした小山清でした。(今回は「小山」と表記します。なぜか長年の知己ような気安さを感じるので)

 

 

小山清(1911-1965)東京出身の作家。盲目の義太夫狂言師の長男として生まれる。新聞配達夫として働きながら太宰の門を叩く。後年幾たびか芥川賞にノミネートされるも叶わず。代表作『落穂拾い』など。

 

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大学時代に『文庫で読めない昭和名作短篇小説』という小説新潮の臨時増刊が出版された。あの当時出版不況はすでに時代の趨勢であり、文庫も本来の意義を失い、続々と絶版になっていた。流行作家でも物故すれば瞬く間に書棚から消える。だからこうした企画は貧乏学生には逃すことのできないチャンスだった。

 

 

その中に小山清『落穂拾い』があった。小山については当時から情報が少なかった。編集者・野原一夫氏の巻末エッセイに、初めて逢った小山の印象が記されている。戦中三鷹の太宰宅の留守役だった小山は、ぎこちなくお辞儀をするのが精いっぱいで、聞き取れない声でなにか呟くおとなしい人物だった。野原氏もてっきり手伝いの人かと思ったらしい。太宰を囲んだ酒席でも、下戸の小山はただ“やわらかな”微笑をたたえるだけで聞き役に回るのが常だったという。

 

【津軽在の太宰から小山への書簡】(青森近代文学館所蔵)

「拝復。留守して失敬。女房出産やら、何やらかやら、五、六、七月まるで無我夢中でした。(中略)『津軽』三百枚書き上げました。貴稿たしかに受取りました。まだ読まぬが、いいもののやうな予感がある。いづれまたたよりする。」

 

その後、夕張炭鉱に出稼ぎに出た間に、太宰は玉川上水で自殺。師を失ったものの、預けた原稿は少しづつ売れていった。晩年は家族の不幸と自らの失語症など、終生、溜め息の多い人生ではあったが“今すぐ大傑作を書こうと思わず、気永に周囲を愛して御生活下さい”という太宰の手紙の勧めに従ったか、いずれの作品にも深い慈愛が注がれている。

 

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今回も新潮文庫の復刻版(昭和30年)を開いた。ゆえに実際のタイトルおよび本文は旧仮名遣いだが、ここでは新仮名遣いとした。(収録作品は以下のとおり)

 

『聖アンデルセン』(「表現」昭和23年)

『前途なほ』(「表現」昭和24年)

『おじさんの話』(「新潮」昭和28年)

『夕張の宿』(「新潮」昭和27年)

『落穂拾い』(「新潮」昭和27年)

『朴歯の下駄』(「人間」昭和24年)

『メフィスト』(不明)

 

※その後、ちくま文庫、講談社文芸文庫からも続々と再刊された。ちょっとした小山清ブームが到来したことを添えておこう。

 

=作品について=

 

『聖アンデルセン』

童話作家アンデルセンが故郷の母に送ったていの書簡体小説。作家として認められない自らの心境を、修業時代の詩聖の、童話作家として軽んじられた苦悩に重ね合わせた。昭和23年は太宰入滅の年。作中のアンデルセンが物故作家ウェッセルに寄せる思慕は、師を失った作者本人のそれかも知れない。

 

 

『前途なほ』

父に弟子入りした義太夫見習いの少女イエと主人公の交流を描く。10歳年上のイエは筋がよく師匠にも可愛がられるが、女弟子間の嫉妬や、その他諸々の大人事情もあって稽古から遠ざかる。勉強嫌いな主人公は学校も落第。そんな彼の将来を嘱望してくれるのはイエと母親しかいない。その母も病死。家族との折り合いは最高に悪くなる。結婚したイエと久しぶりに再会して喜ぶ彼にひとこと。『前途なほ心にかかるものあり』。ブルータスおまえもか。

 

『おじさんの話』

住込みの新聞配達夫の主人公と老配達夫の物語。老配達夫は株の違法売買だけが愉しみ。時には留置所にぶち込まれて一月も帰ってこない。戦後の生活難にあっても逞しく生きる爺さんだったが、寄る年波には勝てず病に倒れて行方知れずとなる。ある時、老人が寺に部屋を借りて暮らしていると知る。訪れてみると、爺さんが住職一家の温かい家庭に囲まれて生きていた。

 

『夕張の宿』

若い炭鉱夫と寮の掃除婦の交流の物語。痔の手術を受けた順吉は寡婦のおすぎに身の回りの世話をしてもらう。順吉は頭の形の悪い男だが、こういうのを法然頭というそうで「将来出世する」と母親は言うが、とても出世とは縁がなさそうである。寡黙と判を押されて女性の人気がない男だったが、おすぎはそんな不器用な彼に、死んだ炭鉱夫の夫(風貌は全く似ていない阿羅漢でも)を重ねるようになっていく。

 

『落穂拾い』

貧乏小説家と若い女古書店主の物語。女学校を卒業したばかりの店主は、勤めは向かないのと言って店を始めた。小説家は自分が物書きであることを伝える。女は作品が載ったバックナンバーを探して読み、読者となって応援してくれるようになる。大した儲けもないはずなのに、女は彼の誕生日を覚えていて贈り物をくれる。それは耳掻きと爪切りのセットだった。

 

 

『朴歯の下駄』

下駄履きの学生が、場末の遊郭で初見世の若い遊女と出逢う。まだ田舎臭さの残るあどけない遊女とは、なぜか気ごころがしれて、しばらく通うようになる。ある日、暇がもらえるからどこかに連れて行けと青年にせがむ。学生は気が引けたが、どうしてもというので日光見物につれていく。実は女は身請けされ、最後の記念に二人だけの時間を作ろうとしたのだった。

 

『メフィスト』

三鷹の太宰治宅で留守番役の小説家見習いが、女性の訪問客に太宰と偽って応対する(さすがは弟子だけあってものすごく旨い。本篇中一番面白いかもしれない。ただし太宰の文体を知らないとなんのこっちゃ判らないが)。御高説を述べまくっていい気になった男は、嫁にもらってもいいなんてことも思ってしまう。ところがその女、実は雑誌記者だった。書かれてはたまらない。男は取り乱すが後の祭り。

 

「ニセって判ってて面白半分にからかわれたんじゃね?」サル

 

そうかもね。出来過ぎな気もするけど。

 

=読後閑話=

 

『聖アンデルセン』を読み始めた当初、女々しくてつまらない小説だなあと投げ出しそうになった。『前途なほ』でおッと思った。いじけた少年の、年上の少女に対する憧憬と恋慕の中間のような甘酸っぱい感情が、自分の少年時代に重なった。特に義太夫の化粧を施した目許涼しく美しい少女の姿は、昭和の初めの松竹映画にでもありそうな、そんな場面として眼に浮かんだ。

 

『前途なほ』『おじさんの話』『夕張の宿』は作者の実体験が許になっているのだろう。主人公は一様に努力が嫌いで、頑なで恨みがましく、自己憐憫の癖がある。これって太宰のメンタリティーと同じである。では小山も同じ穴のムジナなのか。僕は思う。作者は意図して偽悪的に描いた。ただ「無頼」を演じるには純粋で無垢、誠実すぎた。その真正を表した作品が『落穂拾い』だったと推測する。売れない作家を応援する若い女店主の活きた描写がいい。僕もこういう読者が欲しい。あ。そういえば家に一人いた。

 

「むひ?」サル

 

とにかく男女の会話が旨い。甘酸っぱい失恋譚『朴歯の下駄』で、日光から帰った遊女が廓の前で「いろいろ有難う御座いました」と言って丁寧に頭をさげる場面がある。主人公はまた会えると思っているから丁寧さの意味が判らない。こういう女性のしぐさや言葉のわずかなニュアンスを捉える鮮やかさ。心を打たれた。なお師匠の太宰は男女の会話が下手というのが専らの評判である。

 

(映画俳優のような亀井先生。僕は小林秀雄ではなくて断然亀井派)

 

三鷹の住人として親交を結んだ亀井勝一郎「解説」で簡潔にこう述べている。

 

“作品は貧しい人々の群れが描かれているが、「貧しさ」で人の感傷におもねようとする態度は微塵もない。”

 

O・ヘンリの『賢者の贈り物』などもそうだが、貧しいからこそ感じる温かみというものがある。小粒ながら際立つ美しさを持つ小山の作品がなぜ時代に埋もれたか。

 

“題材、手法、表現、すべて尖端的で、意表に出なければ、人の注目をひかないような時代である。”

 

これもまた亀井の言葉である。敗戦後の当時は野間宏安倍公房などの観念的な戦後文学や、左翼からの転向文学戯作派など、新しい試みがあちこちで行われ、旧来の私小説、自然主義は蔑まれる傾向にあったんだ。そんななかで時代から取り残されたように、小山は愚直に“地道な小説”を貫き続けた。ただ、昭和30年頃までは、小山の作品を評価して文庫にいれようという良識ある編集者もいたわけだ。

 

であればこそ、今の困難な時代にこそ、人間が本来持っているやさしさに立ち返るために、読むべき一冊ではないだろうか。そう僕は感じた。

 

「今夜も硬派な内容だにゃ。」サル

 

酒が入ってないからね。このところ。

 

(終わり)

 

あと一週間はこんな感じですかね~。