泉鏡花著『日本橋』を読む | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうの偏愛的読書【17】

泉鏡花著『日本橋』(岩波文庫)

1953年(1914年初刊/千章館)

 

(画像はすべてネットより拝借いたしました)

 

こんばんは。在宅勤務はむしろ働きすぎの呼び水になると実感しているひつぞうです。おかげでだらだら仕事の日々。ぜんぜんブログの更新ができませんな。ま、記すべき話題もないというのが本音だけど。性懲りもなく今夜も本の備忘録。取り上げるのは泉鏡花の花柳小説『日本橋』

※興味のない方申し訳ないです。スルーしてちょ。

 

★ ★ ★

 

記憶が定かならば鏡花の『日本橋』は岩波文庫の復刻版があるだけ。この「復刻版」というのがくせ者で、カバーは新しいが、印字は旧字体の潰れた活字のまま。昭和二十八(1953)年は、鏡花没後十四年という年月の浅さ。末尾に用語解説を附するには早い。加えて舞台は日本橋の花柳界。独特の隠語や擬古文的表現が入り乱れてかなりとっつきにくかった。

 

だが安心しよう。作家の佐藤春夫が「解説」で述べているように“慣れないうちは読みにくいかもしれないが(中略)途中で躓くとも安心して読み進めさえすればよい”とかく飛躍が多く、何を言っているのか判らないのは、単に擬古文的だからではない。「現代語訳」が出版されているのはそうした事情も手伝ってのことだろう。だが、鏡花らしい詩情と美意識が嫣然と現れた、独特の美文調と選ばれた言葉の連なりは、原文でなければ味わえない。是非、手に取ってほしい。

 

 

泉鏡花(1873-1939)。明治から昭和初期に活躍した作家・劇作家。金沢生まれ。早くから硯友社の尾崎紅葉に師事する。あの『金色夜叉』の紅葉である。『高野聖』などの伝奇的な幻想小説と、『婦系図』などの花柳小説において耽美的な作風を打ち立てる。

 

晩年は、アホな自然主義とインテリ風な新思潮に押されて不遇な鏡花先生だったが、「あたしだってねえ、もうひと花くらい咲かせますよ」と、円熟の境地で書き上げた畢生の作が本書である。単行本の装幀と挿絵は日本画家の小村雪岱。鏡花といえば雪岱というくらい繋がりの深い画家だけど、最初の仕事がこれだった。

 

(日本橋を挟んで西河岸と北鞘街河岸の蔵地が並ぶ。丁寧な仕事に眼を奪われるね)

 

=あらすじ=

 

場所は西河岸の一石橋のあたり。飴屋から若い雛妓(おしゃく)が現れる。名はお千世(ちせ)。稲葉家は日本橋では名の通った置屋だったが、看板芸妓のお孝が気がふれたと世間の噂。その姐さんの見舞いにと飴を買ったところから物語は始まる。この出だしがすこぶる読みにくい。

 

何の話かとんと掴めない。数人の悪ガキどもが、お千世をからかっているのは判る。小僧が「不見手(みずてん)」と盛んに口にする。みずてんとは「不見転芸者」、つまり誰それ構わず身を任す遊女の謂いである。そのうち千崎弥五郎大高源吾の名が出るに及んで、ガキどもが歌舞伎の忠臣蔵気取りで、お知世を苛めているのが判ってくる。ひとりの旅の僧に救われたのち、ばったり会ったのが滝の家の芸妓清葉だった。

 

お孝と清葉は置屋の看板をはる名妓。それだけに互いをライバルと見做して、相手の男を盗ることすら厭わない。だが芸妓として一流の清葉は、それ以上にお孝に一目置いている。だが、見舞ったお孝は狂ったまま。そして、口遊んだ人の名は「葛木」。

 

★ ★ ★

 

物語はここで回り舞台のように過去に反転する。二年前の春のこと。ひとりの若い男が巡査の尋問を受けていた。男の名は葛木晋三。嫌疑は川に何かを投げた廉。雛の節句に供えるサザエハマグリを放生したという。巡査は俄かに信じない。ま、そりゃそうだろう。川にサザエとハマグリ。僕なら喰うね。しかしそれは嘘ではなかった。(現代ではそんな習慣も減ったが、子孫繁栄と良き伴侶を得るおまじないですな。二枚貝は二つと合う蝶番がないし)

 

「おサルは赤貝かにゃ」サル

 

巡査はいかにも謹厳実直な田舎官吏で、ますます疑いを濃くして詰め寄る。面倒になった男は詳らかにする。自分は医学生で、行き別れになった姉の形見の土雛の、その供えの貝を放すところを見られてしまったと。しかし、この巡査いささか真面目過ぎた。あわや逮捕というところで葛木を救ったのは、ほろ酔い加減で一部始終を見ていたお孝だった。

 

お孝の機転で救われた葛木だが、実はこの出逢いは偶然ではない。ライバルの清葉に恋心を抱きながら、不器用で気持ちを伝えられない葛木を、まんまと自分のものにして、清葉に一泡吹かせよう。そういう魂胆から始まった。行方知れずの姉に似ている。それだけが清葉への思慕の理由。瓢箪から駒である。葛木とお孝の恋は本物になってしまう。

 

「ハッピーエンドなんじゃね」サル

 

困ったことにお孝に想いを寄せる男はもうひとりいた。北海の商人こと、荒くれの大男、五十嵐源吾。ニシン漁で一山あてた大者だが、お孝恋しさで家族も会社も駄目にしてしまい、とうとう葛木に「お孝を諦めろ」と縋りつく。その勢いで刺し殺すかと思えば、肝心な処で意気地がない。しかし、源吾が我が子を捨てたと聞くに及んで、葛木はお孝の前から消えることを決意する。

 

その一年後。物語は冒頭の子供芝居の赤穂浪士の場面直後に戻る。あの巡礼僧は葛木だった。茶店で休む彼の眼に見えたは逆巻く焔。清葉の滝の家が火事だった。そこに現れたのは五十嵐源吾。逃げ遅れた清葉の家族を助け出し、そのまま刀を提げてお孝を刺しに向かう。だが刺し貫いたのは、お孝の衣装を借りていたお千世。そして抜いた刀で源吾の口から喉を刺し貫いたのはお孝だった。葛木が駆けつけたものの時すでに遅し。お孝は皆が見守るなか、毒を呷って責めを負ったのだった。

 

=読後閑話=

 

最後の段が、あまりにセッカチで飛躍し過ぎで、なぜ源吾はお孝を殺したのか、なぜ火事場に乗じて殺したのか、それまで二人の愛の高まりを、伏線を貼りつつ丁寧に描いた鏡花先生なのに、全てを打っちゃるように、短兵急に大団円に持っていったのが不可解。人物配置もちょっと俗っぽいが、お孝の婀娜っぽさがたまらなくいい。

 

『日本橋』の成功に気を良くしたか、逆に納得いかなかったか、三年後には戯曲『日本橋』を上梓。今でも新派の名作として度々上演される。映画では溝口健二市川崑が監督。後者はお孝を故淡島千景さん、清葉を山本富士子さん、お知世を若尾文子さんが演じている。数年前に物故されたが、千景さんは日本のファニーフェイスの元祖と云えるだろう。

 

(ちょっと癖のある前歯と垂れた目尻が、潰し島田の婀娜な芸妓を演るにはぴったり)

 

渋谷実監督の喜劇の名作『てんやわんや』でデビューした千景さんは、類稀なる美脚を惜しげもなくスクリーン上に曝したことで記憶される。アプレゲールとの合成語“アプレガール”も流行語になった。生涯独身だった。原節子しかり、京マチ子しかり。昭和の大女優にはなぜか独身を貫いた方が多い。男を見る目が肥えすぎて結婚に至らないということか。僕の好きな女優のひとりだった。なのに観ていない。

 

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 露地の細道 駒下駄で

 

物語の随所でお孝が口遊む唄いの文句である。

 

実は稲葉家の在所には不吉な言い伝えがある。その屋敷はかつて若菜家という置屋だった。繁盛したが、ふとした弾みで不幸が重なり、身内に食い物にされた女将は恨みを遺してこの世を去った。雨上がり、或いは朧月夜の晩になると、どこからか、左褄をとった吾妻下駄の、カラコロ露地を踏む音がする。音はすれども姿はない。恨みを遺した女将の魂がこの世に未練を残したか。ほろ酔いのお孝が口遊む一節がこの物語の通底音。殊のほかこの文句をお千世が怖がる。

 

これは地唄「愚痴」の一節。通しで詠んでみよう。

 

愚痴じゃなけれど これまあ聞かしゃんせ
 たまに逢う夜の 楽しみは 逢うて嬉しさ 別れの辛さ
 ええ なんの烏が 意地悪な
 おまえの袖と わしが袖 合わせて歌の 四つの袖
 露地の細道 駒下駄で 胸おどろかす 明けの鐘
 おまえのことが 苦になって 二階住居の 恋やまい

 

因みに駒下駄とは、台と歯を一つの材から繰り抜いた高歯の下駄で、足許の悪い日に重宝された。他方、お孝が履く吾妻下駄は、吉原の遊女・吾妻が愛用したと云われ、芸妓を象徴する小道具。また「左褄をとる」とはその下駄を履いて捌きのいいように、少し着物の褄を引いて歩く所作である。つまり跫音の主が妓女であるということだ。因みに歌詞の「二階住まい」は、お判りですね。妓楼のお座敷は二階部屋だから。

 

地唄舞の舞台はYouTubeでご覧いただける。この作品世界の妙味を味わう一助になる筈だ。

 

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とまあ、様ざまなレトリックが駆使されるのも、鏡花作品の持ち味のひとつ。こんな川柳がある。

 

本郷もかねやすまでは江戸のうち

 

葛木がお孝をふって、その場から逃げ出そうとする場面で出てくる。

 

“女と二人逢いながら、すたすた(かねやす)の向うまで、江戸を離れる男ってのがお前さん江戸にありますか”。 こう、お孝に詰られるわけね。女に恥をかかせるのかって。「かねやす」は今でも本郷にある雑貨屋さん。

 

 

昔は本郷界隈もここまでは江戸だって言われていたわけ。こんな感じで、鏡花の作品では、様ざまな会話文、地の文の枕に、川柳や歌舞伎、浄瑠璃にまつわる言葉が連なる。なじみのある読者はニヤリとするだろう。素晴らしい作品だった。

 

(おわり)

 

早く世間が落ち着きますように。自暴自棄になりませんように。