日程:2018年1月13日~14日
天候:(二日目)快晴
行程:(二日目)幕営地7:02→7:20高塚山7:28→10:16京丸山10:38→11:42展望台11:52→12:42登山口→13:08石切ゲート
≪「姫沙羅の道」展望台より高塚山(左)と竜馬ヶ岳(右)≫
こんばんは。ひつぞうです。一週間で左で箸が使えるようになりました。骨折箇所と切開した手術痕の痛みも殆どありません。人間の身体って凄いですね。今は鉛筆を持つ練習です。握力は殆どなく、やはり力が加わると痛いです。ここで諦めると取り返しがつきません。痛くて涙が出る時もありますが忍耐あるのみ。
「京丸伝説幻視行」①の続きです。
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どうやら鹿の通り道に張ったらしい。牡を中心にした一団が駆け抜ける。気温マイナス10℃。テントの内側はびっしり氷冷庫なみの霜がこびりついている。やはり冬山はこうでないと気分が出ない。氷結と環境負荷を考えて気持ちだけのペグダウンに戦々恐々だったが、無風で過ごせてホッとした。自分の汗が染みついた使い古したシュラフの温もりを肌で感じながら「遅くまで寝られる」という稀にしかない贅沢を貪った。
いつもより遅く起き上がり、二食分のカレーライスを作る。豆から挽いたコーヒーの馥郁たる香りがテントに広がる。夜空は西の底に沈み、群青色の下地に日の出の予兆が色を差し、黄銅鉱の輝きに変わると一瞬にして太陽が大気を貫き通す。
朝が来た。浜松市内の夜景も宝石のようだったが、乳色の深い森も例えようがなく美しい。この処おサルはAMラジオがお気に入り。ちょうどラジオ体操の時間になった。
「ラヂオ体操すゆ」
おサルはどこにいても緊迫感ないね…。
「平常心失わないタチなの」
テントを撤収して高塚山の山頂を目指す。夏道は判りづらいので好きに歩く。
積雪は5センチ程度。
ゆっくり登っていくと、僕らの到着を待っていたかのように標識がひっそりと立っていた。あたりに人工物はなにもなく、それが無かったら、そこがなにかのゴールであるとは判らなかった。漱石の小説『夢十夜』に死んだ女が白ゆりに姿を変えて、愛する男との再会を待つ話がある。蕾を頂いた一本の白ゆり。標識にはそんな人待ち顔な孤独がどことなく感じられた。
念願の高塚山に着いた。事前情報通り(眺望はないけれど)山頂は広かった。そして見違えるほど立派な標識だった。「三百名山」だからさもありなんか。意外だったのは地籍は旧春野町(現浜松市)なのに設置は川根本町だったこと。山犬段からの登山者が多いからだろうね。これって。
こっちが山犬段→蕎麦粒山→高塚山のルートだね。整備されている感がある(錯覚でした)。
寂峰は荒らされることはない。切り出したばかりのような標石が「そっとして置いてください」と告げているような気がした。
あれだけ苦労して辿りついたが、滞在はあっという間。さて次のピークへ。
進行方向に京丸山が見える。裾を広げたような、笠を被ったような姿は、雅な幻想を呼び起こす。諍いを嫌った心優しい都人たちは、断崖と急流が綾なす山襞の最奥まで遁走し、そこに彼らの桃源郷を作った。文字を識る彼らは夥しい一族の歴史を書き綴ったが、ときおり襲う小火によって焼失してしまったのだろう。
高塚山山頂周辺は尾根が緩く、支尾根も複数伸びている。油断は禁物。昨日必死で歩いた竜馬ヶ岳と高塚山の吊り尾根。それなりに痩せているのが判る。なおここから京丸山まではそこそこ赤テープはあり、踏み跡も比較的判りやすい。
枝先がまるで踊っているようだ。
モーリス・ベジャールのバレエのようでもあり、ハチャトゥリァンの<剣の舞>のようでもあり。
一段と京丸山が近づく。決して難しくもなく派手さもない。だが高塚山から始まった今回の縦走計画も、次第に京丸山がその中心に変わった。陸地測量部の活動が始まるまで無名に甘んじた歴史の浅い山だが、山村集落の歴史は豊か過ぎて余りあった。(こうした奥山の荘園はかつて普通に存在していて、エネルギー革命の淘汰の結果たまたま残ったというのが民俗学の通説らしい。)
高塚山~京丸山間には地形図で見る通り、五つほどの小ピークがあるけれど、たいした登りもなくサクサク歩けるのでご心配なく。水平距離の割にはアッという間だ。そして終始広尾根。少しでも進路が屈折している所は横着せずにコンパスと地図での確認がお勧め(指導標なし。テープ多少)。
今回の登山は最初から気持ちの上で後ろ向きな部分があった。高塚山は春の恵みが顔を出す頃に、と思ったことも事実。なのに、高気圧に覆われる太平洋側なら厳しいラッセルも強いられず、比較的楽に縦走できるという消極的理由でこの季節に変えた。山に対して失礼だし、準備不足も否めない。山中での判断も甘く常に迷いがあった。歩きながら、今回の「不安」の源をようやく突き止めた気がした。
ヌーディな立木がおサルを通せんぼ。
高塚山を見返す。三百名山選定の経緯は不明だけれど、「京丸ボタン=ヤシオの森」ということで注目された京丸山域の、その最高峰として選ばれたのではないだろうか。山容だけで比較すれば京丸山こそ代表だと思う。別角度から望む高塚山には人を唸らせる何かがあるのかも知れないけれど。
「もう、すご~く依怙贔屓してるにゃ!」
いいんです。所詮、山は自己満足の世界よ。
いよいよ京丸山への最後の登り。
立木が疎らで笹薮が濃いイメージ(黒バラ平のそれ)があったけれど。
一足先に山頂に到着。広い山頂にはおなじみ千頭山の会の標識が。
「着いたのち?」
もちろん!これで登りは終わりですよ。
健脚であれば12時間で周回可能。核心部は京丸川の下降。高塚山から先のルーファイ。その程度。個人的な感想を言えば、一泊して山の残照を眼にして欲しい。遠州南部の山の、もうひとつの姿に出逢うことができるだろう。
「チョコ食べる?」
全部砕けてるよ…。
渡されたラム酒入りの粒チョコは粉々に砕け散り、底にラム酒が蜜のように溜まっていた。舐めると蜜でべたべた。おサルも僕も。さて本当の下山だ。京丸山は正式なハイキングコースなので赤テープは各段に増えて、道は間違えようがないほど明瞭。
気がつけば吊り尾根の先に蕎麦粒山と富士山が顔を覗かせていた。
結構急なくだりなのでゆっくりね。なんせ僕チェーンスパイク無くしているし。
細尾根あり。
「頑張れ~。ひつじい。」
なんか素直に喜べない。その声援。
尾根の途中から左へ巻道に変わり、その急な巻道をくだり終えると、あれ?林道にタッチした。
そう。これが(旧春野町が町おこしで整備したのだろう)姫沙羅の道だった。すでに管理するものもなく林道は荒れ放題で法面崩壊も複数。それでも綺麗に残っているから、建設当時は強度設計された道路だったに違いない。
大声で二人で話しながらずんずん進んでいくと展望台に出た。これは!なんと素敵な展望台なんだ!風化させるが儘にしておくのは勿体ない。人の訪れは稀なようで、浮き上がった砂礫に靴跡はない。
ほら、これがおサルを苦しめたボタン尾根だよ。急だし長いねえ。
ふざけても二人 放哉(うそ)
途中「先月建てたの?」ってくらい新しく見える「姫沙羅の道」の大きな標柱が残るこの道も、折り返し地点は一様に崩壊が進んでいた。南アの宿命だなあ。
これはボンジ山。深南部前衛の稜線に特徴的な平坦な尾根。京丸山からボンジ山への稜線も同様だった。京丸山登山道の半分を占めるこの遊歩道を、途中「山の神」が祀られた場所で離れて、再び樹間の登山道へ(標識はありません。赤テープあり)。
突入するとすぐに索道の残骸が出現する。先ほどの「姫沙羅の道」は京丸集落に続いているらしい。登山道は一人分の道幅だが割合しっかりしているし、テープもベタ打ちされている。実はこの道も昔は京丸集落の住民の生活の道だった。
最後に一日目に歩いた林道にポンと飛び出した。
ここから京丸山へのピストンを考えている方。こんな感じです。見落とさないようにね。
30分ほどで石切ゲートに戻ってきた。二日目は終日快晴で下山が惜しいくらい。予想通り誰にも逢わない二日間だった。山自体は地味で多少の変化こそあれ、やはり花がなければ印象希薄かも知れない。だが、僕らには様々な想い出を与えてくれた。いずれ痕跡すらなくなるであろう奥山の荘園の幻を見せてくれた京丸集落と取り囲む山々に感謝したい。そして、集落についてはそっとして置いた方がいいと感じた。村を築いた先祖が眠る場所だし、子孫の皆さんが守る土地だから。
失敗だらけだったが、僕たちの、僕らだけの二つとない手作りの山旅を手にすることができた。
山の神様、地権者の皆様、ありがとうございました。
(おわり)
【二日目の行動時間】 5時間25分
ご訪問ありがとうございます。