街の“回復”と進まない除染
「原発難民」再訪記
JBpress
2013.07.02(火)
原発事故から避難生活を送っていたみなさんを2011年夏から2012年初頭にかけて訪ねて歩き、本欄で報告を書いたことをご記憶いただいていると思う。6月下旬、その人々を再訪して歩いた。
福島第一原子力発電所事故直後、私が取材に来たのが原発から北の太平洋岸の街、福島県南相馬市だった。「原発から20キロ」「30キロ」という官僚が地図の上に引いたラインで市域が分断され、食料やガソリン供給など生活基盤が麻痺していたのを聞いたからだ。復旧したあとも、深刻な放射能汚染が残った。南相馬市の現地取材が一段落したあと、市外の山形県や群馬県に避難して暮らす人たちを訪ねた。意志に反して見知らぬ土地に住まわせられるストレス。原発事故被害者への偏見。先の見えない不安。焦燥感。金銭的な限界。子供の心配。そんな彼らの抱える苦しみを、本欄で報告してきた。拙著『原発難民』(PHP新書)にもまとめた。
その避難者たちを再訪しようと思い立った。原発事故から27カ月である。あの人たちはいま一体、どうしているのだろう。
ノートの片隅にメモした携帯電話の番号やメルアドを手がかりに連絡を取ってみると、6人のうち2人が南相馬市に帰り、2人が依然山形県で生活していた。残る2人は「元の避難先よりは近いが、南相馬市からは離れた」場所で生活を再開していた。
ほぼ2年ぶりだった。会ってみると、誰もがすっきりしない顔をしていた。「地元」である南相馬市や近辺に帰ることができて、さぞやほっとしておられるのではないか。しかし、期待は外れた。下がったとはいえ、線量は事故前には戻らない。除染も予想したほどは進んでいなかった。「避難を続けるお金がない」「子供や妻が持たない」「もうどうしようもない」「先が見えない」「現実的に考えると他に選択肢がない」。そんな「あきらめ」「力尽きた」という感じの言葉を何度も聞いた。どんな事情があるのだろう。「原発難民」をもう一度訪ねて回った。
子どもの4割が戻ってきていない
福島市で新幹線を降り、レンタカーを借りた。1時間半ほど車を運転して、南相馬市に着いたのは金曜日の夜だった。市役所やJR原ノ町駅がある中心部を走った。街の明かりが数多く戻り、居酒屋やホテルに電気が灯っていた。ラーメン屋、焼肉屋、中華料理屋。通りを歩く男性の姿が目についた。すれ違う車が増えた。右折するとき対向車を「待つ」ほど増えていることに気付いた。
原発事故直後の2011年4月、このへんは真っ暗だった。飲食店はおろかファミレス、コンビニさえ閉まっていた。自分の食事すら確保が難しかった。人も車もすれ違わない。街がからっぽだった。
その同じ風景に明かりが灯り、人や車が行き交っているのを見ると、何か「街の脈拍」が戻ったような感覚がした。じんとするような感動を覚えた。素朴に、うれしかった。
JR駅前の蕎麦屋に行ってみた。3.11直後も数時間だけ店を開けていた。「新装して2カ月でこんなことになっちゃって」と奥さんが悲しげだった。私は天丼にありついた。うまかった。それ以来、南相馬に来ると必ず寄ることにしている。店内では20代の男女のグループが10人くらい、テーブルを囲んでいた。合コンのようにも見えた。隣では中年のサラリーマンが酒を酌み交わしていた。それは懐かしい「平時」の風景だった。
南相馬の街はずいぶん回復したように見えた。
では、実際どれくらい人が戻ってきたのだろう。それを調べるとき、私が一例として見る数字がある。小中学校にいる生徒の数である。南相馬市は「いるはずだった生徒の人数」と「実際にいる人数」を学校ごとにきっちり把握している。原発被災地から避難生活を続ける人の多くに、小学校~高校の子供がいる。その健康への影響を心配して避難生活を選んでいる。母子が避難し、父親だけが仕事を続けるために南相馬市に残る「単身赴任」ならぬ「単身残留」もよく聞く。
市役所で聞いてみた。2013年5月1日現在で、小学生は57%が戻っている。中学生は67%。合計すると60%である。2012年3月31日は小中学生合計49%(小学生44%、中学生60%)だったから「回復した」とも言える。一方裏返すと「6割しか戻っていない」「子どもの4割が消えてしまった」とも言える。子どもが避難しているということは、母親も一緒にいるということだ。
さらに、2011年度の小中学在籍予定者数(いるはずだった数)6021人は5490人(2013年度)に減っている。避難先の家賃補助を受ける場合は、住民票を南相馬から移さない。が、家賃補助を受けずに、自主的に引っ越してしまった人は、住民票を移してしまう。母集団そのものが減っている。
(南相馬市内に小学校は16、中学校は6ある。2013年度の在籍予定者数は5490人。実際の在籍数は3298人)
そういえば、スーパーやファミレス、クリーニング店などは営業時間を短縮して開けている店が多い。『原発難民』の取材のときには「女性パートが確保できないから」と聞いた。看護師や事務員が足りなくて、診療時間を短縮しているクリニックもある。営業時間の短縮は、あまり変化していなかった。
なぜ除染が進まないのか
最初に気づくことは、南相馬市にホテルや宿を探しても、部屋がないことだ。ホテルや旅館に電話を入れると「復旧や除染作業の作業員で、半年先まで埋まっている」という。なるほど。そういえば、街を走れば、あちこちに長期滞在型の宿泊施設ができているのが目に入る。市の南にある浪江、双葉、大熊町など「より原発に近い街」の避難者も引っ越してきた。住宅物件がなかなか見つからない。そんな話も避難から帰って家を探した人から聞いた。
なるほど。街の中心部に人や明かりが戻っていても、必ずしも3.11前からの住民とは限らないのだ。
では、市域の除染はどれくらい進んでいるのだろう。
国道6号を福島第一原発の方向(南)に向かって車で走ってみた。2012年4月まで、20キロライン以南は、封鎖されて立入禁止だった。内側は「警戒区域」と呼ばれた。国道は20キロラインで警察が検問を敷き、先には進めなかった。
まだ封鎖されていた2011年7月、通行証を持つ地元の人の車に乗せもらって、取材に入ったことがある。そうでもしないと、報道記者は入れなかった。
警察車両が並び、警官が道路に立ちふさがっていたドライブインの前は、今は何もない。何の変哲もない田んぼの真ん中である。当時を知らなければ、気づかずに走りすぎてしまう。
震災1年目(2012年3月11日)
封鎖解除の日(2012年4月17日)
が、進むにつれ、おかしなことに気づく。道路の両側の風景が、以前と変わっていないのだ。津波で田んぼの真ん中に打ち上げられた車や工事車両の残骸が、そのまま同じ場所に放置されている。津波がなだれ込んで骸のようになったタイヤ店や、瓦礫にざっくりと1階をえぐられた住宅が、そのままになっているのだ。かつて見た時との違いといえば、雑草が伸びて、車など瓦礫を覆っていることだ。
なぜ復旧が進まないのだろう。南相馬市の除染担当部署に聞いてみると、複雑な事情が分かってきた。
(1)20キロライン以南(主に南相馬市小高区)はじめ汚染が深刻なエリアは「除染特別地域」として「市」ではなく「国」(環境省)が除染の主体になった。南相馬市市内であっても、市の一存では決められない。市域の南部約3分の1がこうしたエリアである。
(2)除染の最初は地面を厚さ5センチ削って表土を入れ替えることだ。出た土や汚泥、汚水は放射性廃棄物である。通常のごみのように廃棄すると法律違反になる。最終的に運び込む場所が決まらない。それまで保管しておく「仮置き場」も受け入れてくれる土地を探すのが難しい。それでも市内に6カ所場所を確保した。開設したらしたで、近隣以外の除染ごみを持ち込むことは歓迎されない。
(3)除染の作業員が足りない。南相馬市だけではなく、福島県のあちこちで除染作業が本格化している。また宮城や岩手などでも津波災害の復旧作業が大規模に進んでいる。除染は「公共工事」なので、単価が決められている。「給金を他より高く設定して人を集める」ことができない。
(4)南相馬市は、津波と原発災害という「二重災害」に遭った。放射性物質が風で流れた阿武隈山地側(西側)が放射線量が高く、海岸部は低い傾向がある。海岸部は津波で甚大な被害が出た。海岸部は津波被害の復旧の要望が強く、山間部や中心部は除染の要望が強い。時間や人手が2倍かかる。
南相馬市が所有・管理している施設から除染は始まった。小中学校、公園や生涯学習センター、スポーツ施設など、いわゆる「公共施設」である。(1)のエリアを除いてほぼ終了した。これだけでも原発事故から2年がかかったわけだ。
除染の目標値の目安は「年間1ミリSv」
「住宅」では、計画にある1万4728戸のうち除染が済んだのは501戸にすぎない。道路は104キロのうち76キロだ(2013年5月末。福島県除染対策課)。なぜこれほど時間がかかるのだろう。
除染作業は、まず土地登記を調べることから始める。種目が何かによって「宅地」「道路」「農地」「山林」などに分かれる。担当部署も違う。予算を執行する官庁も環境省だったり農林省だったりする。土地境界も確認しないと除染の対象区域が分からない。つまり市域全体で「土地家屋測量」に近い作業をしなくてはならない。
しかも「農地」は除染の方法や計画は決まっているが、まだ実験以外は着手していない。「山林」は住宅から半径20メートルを例外として、方法すら決まっていない。
市内には主に3本の川が西(山)から東(海)に向かって流れている。環境省の調査で、高濃度のセシウムを含んだ泥が底にたまっていることが分かっている。阿武隈山地の山林に降り注いだ放射性物質が、雨や雪で流れて川を下ったのだ。太田川では乾泥1キロあたり6万ベクレルという高濃度のセシウムが見つかった。川底にホットスポットがあるのだ。が、川底の浚渫などはまったく手付かずだ。
夏になると子どもたちがザリガニや魚を釣ることもある。だが、川岸は出入り自由だ。そういった危険を警告する表示すらない。後述するが、市民もあまりこの事実を知らない。
これも市役所で聞いてみた。ダムやため池、農業用水路、川は除染の要望が多い。田畑を除染しても、また放射性物質が流れ込むからだ。しかし、国も除染方法が明確にはつかめない。
一体どれくらいまで線量が下がればよいのだろう。その目安の数字として、市が教えてくれたのは「年間1ミリSv」という数字だ。3.11前の一般公衆の年間許容被曝量である。単純に365日・24時間で割り算すると毎時0.114マイクロSvだ。が、人間は24時間屋外にいることは稀なので、外にいる時間を8時間としたモデル計算で「毎時0.23マイクロSv」という数字を市は挙げた。
南相馬市が独自に計測しているモニタリングの結果では、2013年6月26日時点で市役所前は毎時0.32マイクロSvである(地上1メートルの測定値)。原発事故直後に比べれば下がったと言える。が、それでもまだ目標を上回る地点が多いのだ。
山形から相馬市に戻った但野さん
前置きが長くなった。山形県で出会った避難民の人を訪ねよう。
但野雄一さん(32)一家は、南相馬市の北隣の相馬市に戻っていた。福島第一原発から40キロほど。南相馬市よりさらに遠い。
福島第一原発事故が起きたとき、奥さんの好実さん(25)は妊娠していた。山形県米沢市に避難していた2011年6月に、鳳真ちゃんが生まれた。13平方メートルほどのビジネスホテルの一室で、若い夫婦と赤ちゃん3人が暮らしていた。その様子を本欄で書いた。妊娠中の被曝の影響を心配して「こいつが生まれてくるまでは、心配で心配で」と言っていた。
田んぼの真ん中の2階建てのアパートを訪ねた。1階の部屋のチャイムを鳴らすと、くるんとした目をした但野さんが出てきた。2年ぶりだった。
あの時赤ちゃんだった鳳真ちゃんは、3歳になっていた。よちよち歩きを始めていた。言葉も話し始めた。