幸せは私の中に そしてあなたの中に。 だけど本当の幸せって何だろう? -5ページ目

幸せは私の中に そしてあなたの中に。 だけど本当の幸せって何だろう?

克服出来ない病は世の中に沢山ある。自分も数々の克服出来ない心の病と身体の病に罹患している。他人の痛み知る努力をし、思い遣りの心で知り応援したい。努力によって人は誰しも大きな失敗でも取り戻せる。努力によって人は誰しも生きる尊厳を取り戻す事ができる。

 

 

 

※BGMでも聴きながらお読みください。

 

 

竈門禰豆子のうた

 

 

 

 

 

唯一の楽しみだった電動カートでの遠足。

 

 

あの時間だけは、病や現実から少しだけ解放される感覚があ

 

 

った。

 

 

ゆっくりとした速度で進むからこそ見える景色、耳に届く自然

 

 

の音、肌で感じる風。

 

 

どれもが、自分が「生きている」と実感できる大切な時間だった。

 

 

けれど、その小さな自由すら、天候という、どうにもならない

 

 

現実に奪われてしまう。

 

 

気温が低すぎる日、風が強くて身体が冷え切ってしまう日、そし

 

 

て今日のような大雨の日。

 

 

外に出ることすら叶わず、ただ窓の外を眺めるしかない。

 

 

せめて家の周辺だけでもと、障碍者用の手押し車で出ようと考

 

 

えることもある。

 

 

しかし、空はどんよりと曇り雨だ。

 

 

陽の光にすら当たれない日には、そのわずかな外出の意味さ

 

 

え見失ってしまう。

 

 

外に出ても心が晴れないのなら、いっそ動かない方が楽なので

 

 

はないか、そんな思考が頭をよぎる。

 

 

結果として、家の中で何をするでもなく過ごす時間が増えていく。

 

 

ただ時間だけが過ぎていく感覚。

 

 

テレビをつけても内容は頭に入らず、本を開いても文字が心に

 

 

残らない。

 

 

何かをしようという意欲そのものが、どこかへ消えてしまったかの

 

 

ようだ。

 

 

こうした日々は、静かに、しかし確実に精神を削っていく。

 

 

「何もできない」という現実は、「何の価値もないのではないか」

 

 

という錯覚へと変わり、心の奥に重くのしかかる。

 

 

27日の精神科の診察で、セルシンが増量された。

 

 

医師は少しでも不安や緊張が和らぐようにと考えてくれたのだ

 

 

と思う。

 

 

確かに、薬は身体の反応を少し穏やかにしてくれる。

 

 

しかし、それだけで心の沈み込みが消えるわけではない。

 

 

薬では埋められない空白がある。

 

 

それは、「楽しみ」や「希望」といった、生きる上での感情の部分

 

 

だと思う。

 

 

電動カートでの遠足は、単なる外出ではなく、その空白を埋め

 

 

てくれる数少ない存在だった。

 

 

だからこそ、それができない日々は、想像以上に重くのしかかる。

 

 

では、こうした状況の中で、自分はどうすればいいのか。

 

 

正直に言えば、答えはまだ見つかっていない。

 

 

ただ一つ言えるのは、「何も感じないようにする」ことだけは違

 

 

う気がしている。

 

 

たとえ苦しくても、「苦しい」と感じている自分を否定しないこと。

 

 

それだけは手放したくない。

 

 

外に出られない日が続いても、心のどこかに「また遠足に行け

 

 

る日が来る」という小さな灯を残しておく。

 

 

その灯はとても弱く、今にも消えそうかもしれない。

 

 

それでも完全に消してしまえば、本当に何も残らなくなる。

 

 

大雨の日、冷たい風の日、どうしようもなく沈む日。

 

 

そのすべてを無理に前向きに変える必要はないと思う。

 

 

ただ、「今はそういう日だ」と受け止めながら、次に外へ出られ

 

 

る日のために、ほんの少しだけ心を繋ぎ止めておく。

 

 

電動カートでまたあの道を進む日を思い浮かべながら。

 

 

あのゆっくりとした時間が、再び自分のもとに戻ってくること

 

 

を願いながら。

 

 

今日という一日を、なんとか終えていくしかない。

 

 

 

 

 

May be the best year of my life.

 

 

 

 

 

※BGMでも聴きながらお読みください。

 

 

ヘッドライト・テールライト 

 

 

 

 

電動カートでの遠出は、だいたい2〜3時間。

 

 

ゆっくりとした速度で進むからこそ、普段は見過ごしてしまう

 

 

ような景色や音に、自然と意識が向く。

 

 

風が草を揺らす音、遠くで鳴く鳥の声、水路を流れる水の

 

 

せせらぎ。

 

 

それらはどれも静かで、しかし確かに生きている証のように心

 

 

に届いてくる。

 

 

一方で、近場の移動には障碍者用の手押し車を使う。これも

 

 

また、地面に近い目線で世界を見ることができる、大切な

 

 

存在だ。

 

 

歩くことが難しい私にとって、これらの道具は単なる移動手段

 

 

ではなく、「自然と向き合うための窓」のようなものだと感じて

 

 

いる。

 

 

しかし、その窓から見える景色は、必ずしも美しいものばかり

 

 

ではない。

 

 

以前にも書いたが、こうしてゆっくりと移動していると、人間

 

 

がどれほど自然を傷つけているのかが、はっきりと見えてくる。

 

 

道端に捨てられた空のペットボトル、中身が残ったままのもの、

 

 

誰かが履いていたであろう靴、そして子供のオムツ。

 

 

書き出せばきりがないほどのゴミが、当たり前のように自然の

 

 

中に存在している。

 

 

それらは本来、そこにあるべきものではない。
 

 

それでも、まるで最初からそこにあったかのように、風景の

 

 

一部になってしまっている現実がある。

 

 

自然の音に癒されながらも、そのすぐそばにある「人間の痕跡」

 

 

に、複雑な気持ちを抱かざるを得ない。

 

 

さらに今の時期は農繁期だ。

 

 

田んぼや畑では、多くの農業機械が行き交っている。

 

 

日本の食を支える大切な仕事であり、その尊さは十分に理解し

 

 

ているつもりだ。

 

 

しかし、その一方で、道路には泥が落ち、車が通るたびにそれ

 

 

が広がっていく。

 

 

もしその日に車を洗ったばかりの人がいれば、きっと怒りでい

 

 

っぱいになるだろう。実際、私の電動カートも同じように泥を浴

 

 

び、汚れてしまうことがある。

 

 

そんな中でも、心ある農家の方が長いホウキで道路を掃き綺麗

 

 

にしている姿を見ると、救われる思いがする。

 

 

同じ農業に携わりながらも、その行動には大きな違いがある。

 

 

ほんの少しの気遣いが、周囲の人の気持ちをどれほど変えるか

 

 

を、私はその光景から学んでいる。

 

 

では、こうした現実を見たとき、私はどう考えればいいのだろ

 

 

うか。

 

 

「これが社会というものなのか」
 

 

そう自分に問いかけることがある。

 

 

人はそれぞれの立場で生きている。

 

 

忙しさの中で余裕を失い、ほんの小さな配慮を忘れてしまうこ

 

 

ともあるだろう。

 

 

ゴミを捨てる人にも、泥を気にしない人にも、それぞれの事情が

 

 

あるのかもしれない。

 

 

しかし、それを「仕方がない」と、受け入れてしまった時、何か大

 

 

切なものまで失ってしまうような気もする。

 

 

自然は、人間に何も求めてはこない。ただそこに在り続けるだ

 

 

けだ。

 

 

だからこそ、人間の側がどのように向き合うかが問われてい

 

 

るのだと思う。

 

 

私にできることは限られている。
 

 

ゴミを全部拾うことも、社会の仕組みを変えることもできない。

 

 

それでも、少なくとも「気づくこと」はできる。
 

 

そして、その気づきを無視せず、心に留め続けることはできる。

 

 

電動カートでゆっくりと進みながら、私は今日も自然の音に耳

 

 

を傾ける。
 

 

その中に混じる、違和感や悲しさも含めて、この世界の現実な

 

 

のだと受け止めながら。

 

 

美しいものと、そうでないもの。
 

 

優しさと、無関心。

 

 

それらが混ざり合っているのが、今の社会なのかもしれない。

 

 

だからこそ、せめて自分だけでも、ほんの少しでも優しさを選

 

 

びたい。
 

 

誰も見ていなくても、できる範囲で周りを大切にしたい。

 

 

自然の音は、今日も変わらず心を癒してくれる。
 

 

その静けさの中で、私は問い続ける。

 

 

「自分はどう生きるのか」と。

 

 

答えはまだ出ない。
 

 

けれど、その問いを持ち続けること自体が、きっと意味のある

 

 

ことなのだと思う。

 

 

 

 

 

 

May be the best year of my life.

 

 

 

 

 

 

※BGMでも聴きながらお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

率直に言うと、今の医学では
後縦靭帯骨化症を**「完全に元通りに治す治療」は確立されていません。**

ただし、それは「何もできない」という意味ではありませんし、「未来もずっと変わらない」とも限りません。


■ なぜ“治す”のが難しいのか

後縦靭帯骨化症は、本来やわらかいはずの靭帯が骨のように硬くなり、神経(脊髄)を圧迫する病気です。

問題は、

  • 一度骨化した組織を元の靭帯に戻す方法がない
  • 神経(脊髄)はダメージを受けると回復が難しい

という点です。

そのため現在の治療は、

  • 手術で圧迫を取り除く
  • 症状の進行を抑える
  • リハビリで機能を最大限保つ

といった「改善・維持」が中心になります。


■ 「回復」と「治る」は別物

ここで大事な視点があります。

“治る(完治)”と“回復する(改善)”は違うということです。

  • 麻痺が完全に消えなくても、動きが少し戻ることはある
  • 感覚が変わる、生活のしやすさが上がることもある
  • リハビリで「できること」が増えることもある

つまり、「ゼロか100か」ではなく、少しずつ変わる可能性は現実にあるということです。


■ これから先、治る日は来るのか?

ここは希望を持っていい部分です。

現在、医療の分野では

  • 再生医療(神経の修復)
  • iPS細胞研究
  • 神経再生を促す治療

などが進んでいます。

特に脊髄損傷や神経再生の研究は、日本でもかなり進んでおり、将来的に「今は治せないものが治せる」可能性は十分あります。

ただし、正直に言うと
“いつ実用化されるか”はまだ誰にも断言できない段階です。


■ 現実と希望のバランス

厳しいことも含めて言うと、

  • 今すぐ完全に治る可能性 → 低い
  • 今の状態を良くする可能性 → ある
  • 将来、治療が進歩する可能性 → ある

この3つを同時に持つことが大切です。

「希望だけ」でも苦しくなりますし、
「絶望だけ」でも前に進めなくなります。


■ 最後に

あなたのように、重い病気と向き合いながら生きている人に対して、軽いことは言えません。

ただ一つ言えるのは、

医学は確実に前に進んでいるということです。

そしてもう一つ、

今のあなたの人生の価値は、“治るかどうか”だけで決まるものではないということです。

 

 

 

 

 

 

 

May be the best year of my life.