※BGMでも聴きながらお読みください。
竈門禰豆子のうた
唯一の楽しみだった電動カートでの遠足。
あの時間だけは、病や現実から少しだけ解放される感覚があ
った。
ゆっくりとした速度で進むからこそ見える景色、耳に届く自然
の音、肌で感じる風。
どれもが、自分が「生きている」と実感できる大切な時間だった。
けれど、その小さな自由すら、天候という、どうにもならない
現実に奪われてしまう。
気温が低すぎる日、風が強くて身体が冷え切ってしまう日、そし
て今日のような大雨の日。
外に出ることすら叶わず、ただ窓の外を眺めるしかない。
せめて家の周辺だけでもと、障碍者用の手押し車で出ようと考
えることもある。
しかし、空はどんよりと曇り雨だ。
陽の光にすら当たれない日には、そのわずかな外出の意味さ
え見失ってしまう。
外に出ても心が晴れないのなら、いっそ動かない方が楽なので
はないか、そんな思考が頭をよぎる。
結果として、家の中で何をするでもなく過ごす時間が増えていく。
ただ時間だけが過ぎていく感覚。
テレビをつけても内容は頭に入らず、本を開いても文字が心に
残らない。
何かをしようという意欲そのものが、どこかへ消えてしまったかの
ようだ。
こうした日々は、静かに、しかし確実に精神を削っていく。
「何もできない」という現実は、「何の価値もないのではないか」
という錯覚へと変わり、心の奥に重くのしかかる。
27日の精神科の診察で、セルシンが増量された。
医師は少しでも不安や緊張が和らぐようにと考えてくれたのだ
と思う。
確かに、薬は身体の反応を少し穏やかにしてくれる。
しかし、それだけで心の沈み込みが消えるわけではない。
薬では埋められない空白がある。
それは、「楽しみ」や「希望」といった、生きる上での感情の部分
だと思う。
電動カートでの遠足は、単なる外出ではなく、その空白を埋め
てくれる数少ない存在だった。
だからこそ、それができない日々は、想像以上に重くのしかかる。
では、こうした状況の中で、自分はどうすればいいのか。
正直に言えば、答えはまだ見つかっていない。
ただ一つ言えるのは、「何も感じないようにする」ことだけは違
う気がしている。
たとえ苦しくても、「苦しい」と感じている自分を否定しないこと。
それだけは手放したくない。
外に出られない日が続いても、心のどこかに「また遠足に行け
る日が来る」という小さな灯を残しておく。
その灯はとても弱く、今にも消えそうかもしれない。
それでも完全に消してしまえば、本当に何も残らなくなる。
大雨の日、冷たい風の日、どうしようもなく沈む日。
そのすべてを無理に前向きに変える必要はないと思う。
ただ、「今はそういう日だ」と受け止めながら、次に外へ出られ
る日のために、ほんの少しだけ心を繋ぎ止めておく。
電動カートでまたあの道を進む日を思い浮かべながら。
あのゆっくりとした時間が、再び自分のもとに戻ってくること
を願いながら。
今日という一日を、なんとか終えていくしかない。
May be the best year of my life.
















