子供の扱いが酷かった昔のフランス | 人差し指のブログ

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「 人生のくくり方 折目・節目の社会学 」

加藤秀俊 (かとう ひでとし 1930~)

日本放送出版協会 1995年5月発行・より

 

 

 

 

 

 それにもかかわらず、十七世紀になっても、「子ども」 という観念はフランスの世界ではなかなか成立しにくかったようです。

 

 

(フィリップ・)アリエスはこの書物(<子ども>の誕生)のほかに 「家族のなかの子ども」 という論文を書き、その中でこんどは文学論の立場から、いかに子どもが無視されてきたかを論じています。

 

 

たとえば、ラ・フォンテーヌについて、

「 ラ・フォンテーヌは、この残酷にして不条理なる小さな生き物を、動物よりももっと理性を欠く存在として軽蔑した」

と批評しました。

 

 

つまり、生まれたばかりの赤ん坊はもちろんのこと、子どもというものは、ラ・フォンテーヌによれば 「動物よりももっと理性を欠く存在」 としてとらえられていたのです。

 

 

ラ・フォンテーヌと同時期のあのモンテーニュはおどろいたことに、自分が何人の子どもをもっているかを知らなかった、というエピソードが残っています。

 

 

子どもの誕生日をはっきりと覚えていて誕生祝いをする現代の私たちにとっては、想像もつかない時代がかつてのフランスの実情だったのです。

 

 

 そればかりではありません。

その時代のある文学者は人間の子ども時代は 「獣の生活」 である、といった極論さえ残しています。

 

 

私たちはフランスという国を文化的に洗練されている国という印象でとらえておりますし、事実そのとおりなのですが、ラ・フォンテーヌやモンテーニュの時代にさかのぼってみますと、少なくとも子どもに関するかぎり、その位置づけもはっきりしていませんでしたし、子どもは動物以下の扱いをされていたようなのです。

 

 

 そんな歴史の中に、きわめて革命的な思想をもちこんだ人物が現れました。

 

それは十八世紀初頭の啓蒙思想家ジャン・ジャック・ルソー(1712~78年)です。

 

 

かれの著作は日本でもきわめて有名で 『人間不平等起源論』 、『社会契約論』 など明治時代から日本の思想家にすくなからぬ影響を与えてきました。

 

 

とくに 「社会契約論」 はごぞんじのように中江兆民などがふかい影響をうけ、「社会契約説」 を自由民権運動の基本哲学にしたことはいうまでもありません。

 

 

 しかし、ルソーはこれらの書物のほかにもうひとつ1762年、50歳をすぎてから 『エミール』 という有名な物語風の教育論を書きました。

 

 

じじつ伝記を調べてみると、ルソー自身1740年ごろ家庭教師をしていたことがあり、その経験もこの本には少なからず反映されている、といわれています。

 

 

 余談になりますが、ルソー自身の家庭生活はけっして幸せなものではありませんでした。

 

彼は結婚生活のなかで、五人の子どもをもったのですが、夫人との折りあいが良くなかったので、自分の子どもは五人ともことごとく養育院におくらなければなりませんでした。

 

 

結局、ルソーは五人の自分の子供をもちながら、彼らを自分の力で育てることができなかったのです。

 

 

そういう人物が教育論を書くというのはまことに矛盾したことではないかという批評もありますし、親が元気なのに養育院に入れるというのは何事か、という意見もありますが、その当時のパリの統計をみますと、新生児の三十パーセント、ときには六十パーセントあまりは捨て子であったという記録も残っています。

 

 

 実際、親が子どもを育てるのはあたりまえだ、と私たちは常識的に考えていますが、十八世紀なかばのパリでは生まれた子どもを捨てることは珍しいことではなかったのです。

 

 

 

                          2月6日の奈良・春日大社