小遣いが百両だった農民  | 人差し指のブログ

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「 山本七平全対話  根回しの思想 山本七平他 」

山本七平 (やまもと しちへい 1921~1991)

株式会社学習研究社 1984年11月発行・より

 

 

 

~ いま求められる「横割りの原理」 天谷直弘 (1934~1994) ~

 

 

 

山本 ここで、明治期の官僚ということで、少しお話したい人物がおりま

    す。

 

    あんまり名前は知られてませんけれど、有名な富岡製糸工場の初

    代の所長で尾高藍香(おだからんこう)という人です。

 

 

    その頃、レンガがありませんから、まず自分でレンガの製法を習っ

    て、焼くことから始めるんです。

 

 

    それから、セメントができないから、すべて漆喰(しっくい)でやるんです

    よ。

 

 

    そして、フランス人の顧問を招いて、その指導どおりに近代的な

    製糸工場をつくり、自分で経営していって黒字にする。

 

 

    これは官業ですから、彼も官僚になるわけですけれども、もとを

    糾(ただ)すと、埼玉県の深谷(ふかや)の近くで藍(あい)をつくっている

    一介の農民なんですよ。

 

天谷 ほう。

 

山本 まあ、名主ですけれど、何歳から本を読んでいたのかわからないぐ

    らいのおっそろしい勉強家です。

 

 

    ああいう農村ブルジョアジーみたいなものが幕末にすでにあっちこ

    っちにいたということが、おそらく日本の近代化には非常にプラスに

    なってるんでしょうね。

 

 

    これがみんな明治の官僚の中間管理職予備軍、後の高等文官予

    備軍なんです。

 

 

    ああいう人たちがいなくて、上の方の武士と下の方の食うや食わず

    の農民だけだったら、とてもあんな官僚機構はできないですね。

 

 

天谷 なるほど。

 

 

山本 もう一人、藍香と親戚だった渋沢栄一がおりますね。

 

 

    彼もやっぱり藍をつくっている農民で、五百両や千両はなんとも思っ

    ていません。

 

 

    十七歳の時、少年渋沢栄一が御用金を申しつけられて、「代官の

    言い方が気にくわない」 といって、かんかんに怒るんです。

 

 

    その時、代官が非常に妙ないい方をしている。

    「おまえたちの方で三百両や五百両なんでもないだろう」 と。

 

 

    しかし、栄一は金が出せないから怒ってるんじゃない。

 

 

    本当は 「物をもらうのにこんなに傲慢無礼な態度があるか」 と

    怒ってるんですね。

 

 

    で、家へ帰って父親にその事をいうと、「ああ、五百両か」 と言っ

    て、いとも簡単に出してしまうんですよ。

 

 

     それから、栄一が高崎城乗っ取りを企てるとかいうわけで、家の金

    百五十両をごまかして武器を買うわけですが、家ではそれがわから

    ないんです。

 

 

    だから、ほんと、すごいんですよね。

 

 

    けっきょく乗っ取り計画はとりやめて、京都に逃げ出すんですが、

    その時に、またおやじさんがポイと百両をくれるんですね。

 

    百両ポイが小遣いなんです。

 

 

    のち慶応三年(1867)、渋沢栄一は徳川昭武(あきたけ)の随員として

    フランスの万国博覧会へ行って、ついでに留学するつもりでいたとこ

    ろが、その間に幕府が瓦解してしまい、どうにもならなくなった。

 

 

    そこで 「私費で留学するつもりだから金を送ってくれ」 とおやじに

    いってるんです。

 

 

    うちのおやじは息子一人ぐらいフランスに私費留学させることができ

    るはずだと考えていたわけです。

 

 

    この渋沢栄一が、その近在一の金持ちかと思ったら、村で二番目

    なんです。

 

 

天谷 島崎藤村の 『夜明け前』 の青山半蔵なんかもそういう階層に属す

    る人物ですね。

 

 

山本 そうです。明治の初めに官を志した人はみんなそういう階層の子弟

    なんです。

  

 

    そして、こういう明治官僚制の下地になった農村ブルジョアジーの厚

    い層は、やはり徳川二六五年が平和だったからできたんですよ。

 

 

    それだけの資本を農民がいつの間にか蓄積していたわけです。

 

 

    ロシアには1910年頃になってもこれがないんですね。

 

    ストルイピンという政治家が1906年に宰相になって、近代化す

    にはまずどうしても農村ブルジョアジーをつくらなきゃだめだという

    んで、そういう政策を一所懸命やるんですが、反動政策だっていわ

    れて過激派に殺されてしまうんです。

 

 

    ああいうところで選抜制で官僚をつくろうとしても無理ですよ。

 

    日本では、維新前にそれがいたということが明治の官僚制の大きな

    特徴なわけですね。

 

                                                          1984・4 『円卓トーキング』

 

                                   

 

 

2016年10月10日に 「渋沢栄一が見た西郷隆盛」 と題して渋沢の文章を紹介しました。コチラです。  ↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12207025962.html

 

 

2016年10月16日に ~ 大久保利通は「厭な人だった」 ~と題して渋沢栄一の文章を紹介しました。コチラです。  ↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12208271771.html

 

 

2016年10月23日に 「渋沢栄一が見た江藤新平」 と題して渋沢の文章を紹介しました。コチラです。 ↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12207964969.html

 

 

 

 

 

   3月23日の奈良公園の花と鹿            後ろは氷室神社

白木蓮の花も盛りを過ぎて風が吹くと花びらが落ちてきます。その花びらを鹿が食べています。

                                 願いは同じ