関ヶ原の秀忠の遅参は予定行動?その2  | 人差し指のブログ

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「 童門冬二の歴史余話 」

童門冬二 (どうもん ふゆじ 1927~)

株式会社 光人社 2002年1月発行・より

 

 

 

 

 関ヶ原合戦のとき、中山道を進んだ家康の子 秀忠は、決戦に 間に合いませんでした。

 

 

信州(長野県)上田城にこもる真田昌幸(まさゆき)・信繁(幸村とよばれています)父子のゲリラ戦術にふりまわされたからです。

 

 

 家康は怒り

「秀忠の顔など みたくない !」  とののしります。     

 

秀忠も悲観しておおいに くやしがります。

 

 

が、この遅れはその後の葵(あおい)三代の発展に多大な貢献をします。

 

 

 なぜなら、この遅れによって、家康は三河以来の忠誠心にあふれる譜代武士のほとんどを、失わずにすんだからです。

 

 

 関ヶ原合戦に実際に参加した家康の直臣(じきしん)は、一門の松平忠𠮷(ただよし)、本多忠勝(ただかつ)、井伊直政くらいのもので、あとはぜんぶ豊臣系の大名です。

 

 

 ですからこの合戦は豊臣系大名対豊臣系大名の戦いだった、と言って

いいと思います。

 

 

石田三成に味方した大名も、も、ほんとうに三成のために、と思っていたのは大谷𠮷継(よしつぐ)くらいのものでしょう。

 

 

ほとんどの大名は心を動揺させていました。

それはみんな、

 

「大阪城から秀頼(ひでより)公が出馬なさるかもしれない」

と思っていたからです。

 

でも秀頼は出てきませんでした。

 

 

それがはっきりしたとき、豊臣一族の小早川秀秋をはじめ、つぎつぎと裏切り者が出たのです。

 

 

これも家康の巧妙な作戦です。

 

 

 さて、そうなると、疑いぶかく性格のよくないぼくは、フッと考えるのです。

 

 

「秀忠のおくれはヤラセではないのか?」 と。

 

 

 ぼくの疑いというのは、

「家康は、この合戦で徳川家の忠臣たちを失いたくなかった。将来のために温存しておきたかった。そのために、ほとんどの忠臣を秀忠に預け、ワザと決戦におくれさせた」

 

というものです。カングリにすぎるでしょうか。

でも家康ならやりかねないと思うのです。

 

 

 そうなると、関ヶ原の合戦場で、同じと豊臣系でありながら殺しあわな

ければならなかった大名たちは、気の毒な気もします。

 

 

しかし歴史というのはそういうものなのです。

 

 

                                           

 

 

関ヶ原の秀忠の遅参は予定行動?」 (その1) は10月5日に紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12487708323.html

 

 

 

 

奈良だから地下通路にだって鹿がいます。奈良公園にて10月18日撮影