「 徳川三代 家康・秀忠・家光 」
童門冬二 (どうもん ふゆじ 作家 1927~) 他
中央公論新社 1999年11月発行・より
~ 忠実なる初代の継承者 徳川秀忠 大和勇三(経営評論家19
14~1991) ~
関ヶ原合戦の前後には、いろいろ謎がある。
その一つは、東海道を家康と徳川旗本の軍団が西進し、中山道を秀忠の率いる譜代大名の軍団が西進していったのだが、秀忠軍は関ヶ原の戦場には間に合わず、家康の不興を蒙ったという。
この秀忠の失敗には、裏がありそうにみえる。
秀忠遅参は、実は家康と秀忠と本多正信らのトップ間の謀略であったと思われるフシが窺える。
第一に 二,三千の小勢で立て籠もる上田城の真田氏などにこだわらず、上田に見張りを置いて西進出来る大軍なのに、わざと真田に手こずって見せた。
のち本多忠勝、榊原康政、井伊直政の三傑が会合した折、「何故、小真田に こだわったか」 と疑問が出た。
その時、秀忠軍に付属していた康正は黙して語らず、最後に三人は顔を見合わせて呵々大笑したという話もある。
また康正は秀忠軍に先行して、西へ急ぐ途中で、一時ストップ令をかけている。
秀忠軍遅参は、東に上杉との対戦の成行きを警戒しつつ、西には関ヶ原合戦の成行きをみて、万々が一、西方で徳川方に敗色が出た時には、
第二軍がその時に立て直しにかかる という全体をにらんだ作戦であったかも知れぬというわけだ。
徳川方は第二軍を温存し、またその第二軍は東方へも圧力をかけうる
位置で、双方をにらむという姿勢をとることも出来た。
秀忠軍の遅参は、秀忠の危機管理能力の不足を示したものではなくて、徳川のトップの最高機密作戦に基づく予定行動だったのではないか。
後は家康の演技であって、秀忠が本当に不興を蒙った形とせねば、味方した外様大名たちにまずい。
武略の行動力について、秀忠にどうも欠点があったように思えず、当時のトップの敵味方をあざむく謀略とみると、現代の史家までもよくも欺し
おおせたもの だったとも考えられる。
~忠実なる初代の継承者『歴史と旅』(1986年12月号)~
2016年7月1日に 『関ヶ原の戦いと明治維新・「土佐の場合」』 と題して司馬遼太郎の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12168231460.html?frm=theme
左の方の若木にガキが木登りしてやがる!と思ってよく見ると子供では
なく バッグのような物でした。奈良公園と東大寺大仏殿 9月22日撮影