遣唐使とは逆の「唐による遣日使」   | 人差し指のブログ

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「 日本に外交はなかった  外交から見た日本の混迷 」

宮崎正弘 (みやざき まさひろ) / 高山正之 (たかやま まさゆき)

株式会社自由社 平成28年9月発行・より

 

 

 

 

[ 宮崎正弘 ]     田中英道 『やまとごころとは何か』 (ミネルヴァ書

              房) に書いてあることだけど、遣唐使より遣日使

              の数が多かった。

 

                               回数も多かった。

 

 

 ところが、この事実はなぜか戦後左翼によって軽視されてきた。

 

 

日本人と支那人の違いはここにあります。

 

 

 はじめから支那に位負けしているので、「そんな筈がない」 という先入観念があり、支那のほうが日本より一貫してまさっていたと誤解してきたわけでしょう。

 

 

 あの鑑真とて、永住のつもりで日本にやってきた。

 

 

しかし阿倍仲麻呂は、帰国の意思を最終まで捨てずにいたのです。

 

 

かれは支那に亡命したのではない。

 

 

 さて遣日使は天智天皇の治世には、毎年のように、六六九年には朝散太夫郭務宋ら計二千余人、六七一年には計二千人と多数の舟と唐人が来朝していることが記録されています。

 

 

 渤海からの遣日使は約二百年のあいだに三十三回にわたり、反対に日本からは十三回。

 

 

つまり日本の二、五倍ですよ。

 

 

 そして 「半世紀に数千人の留学生らが日本にきた」 という記録から推定すると、当時の人口から勘案して現代の日本に四十万人の留学生が犇(ひし)めいていたことになる。

 

 

 現在、在日中国人は八十万人、留学生七~八万、日本にすでに帰化

した中国人十一万人。

 

 

多くが巧みに日本語をあやつる。 なんて酷似する状況でしょうか。

 

 

 対照的に中国に帰化した日本人はごく希。

 

 

中国への留学生は語学留学が九〇パーセント、ほぼ全員が帰国します。

 

 

赴任でいやいや中国へ行く日本人の過半は現地でも中国語を覚える意思さえないでしょう。

 

 

すると文化的優位がどちらにあるかも小学生でも判る。

 

 

                                       

 

 

新羅から日本語を学びに来る者もいたそうです。

2016年12月12日に 「奈良時代の外国語」 と題して安本美典の文章を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12227379831.html?frm=theme

 

 

 

 

                         奈良公園にて10月9日撮影