「白村江の戦い」の日本人捕虜 | 人差し指のブログ

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「 日本に外交はなかった  外交から見た日本の混迷 」

宮崎正弘 (みやざき まさひろ) / 高山正之 (たかやま まさゆき)

株式会社自由社 平成28年9月発行・より

 

 

 

 

高山 則天武后って支那人は非常に評判悪いよね。

 

 

    彼女は父の後宮から出て息子の嫁になった大した女性だけどその

    勢いで、唐の一時期、天下をとって国の号も周と改めちゃった。

 

 

     十五年間だけど その時に遣唐使というか、唐のつもりで日本人

    が行った。

    唐がなくなっている。

 

 

    粟田真人たちだけど、本当にびっくりしたと歴史書に書いてある。

 

 

    それでも日本からの使いとして宮殿に上がる。

 

 

    そして、そこで四十年も前の白村江の戦いで捕虜になった日本人を

    見つける。

 

 

宮崎 日本人ですか。 朝鮮人じゃなくて。

 

 

高山 日本人。 捕虜になってた。 それで捕虜は。

 

 

宮崎 当時の感覚では人間扱いされていませんよね。

 

 

高山 彼らは唐の王室に献上されて、そこの召使いに使われていた。

 

 

    白村江から四十年、結構な年になっていた。

 

 

    何かどこかで、あれは宮崎さんのコラムだったと思うけれども、

    奴隷って人の財産だ。

 

 

    それでも粟田真人は、彼らは日本人だ、連れて帰りたいと言った。

 

 

    あんたの奴隷をくれということは、あんたの財産が欲しいということと

    同じ。

    非常に失礼に当る。

 

 

     ところが則天武后は心安く返してくれた。

 

 

    支那の歴史はともかく本当は義理も人情も分かるいい女帝だったの

    ではないか。

 

 

宮崎 いったい則天武后はどういう心理が作用して、そうした人道的外交

    を展開したんでしょうね。

 

 

高山 四十年たってる。その時二十歳ぐらいで出てたら、六十歳ぐらいの

    じいさんだね。

 

 

宮崎 かなり奇跡的。  きっと少人数だったんでしょうね。

 

 

高山 三人ぐらいいたんじゃないの。

 

 

    ともかく、まとめて連れて帰ったという記録が残ってる。

 

 

                                          

 

 

粟田真人=慶雲元年(704年)、白村江の戦い以来捕虜になっていた者を連れて五島列島福江島の西端 玉之浦へ漂着して帰国。

功績により大和国に田20町、穀1000石を賜与された。(wikipediaより

 

 

 

 

 

 

                    奈良公園の猿沢池にて9月17日撮影