「 中国意外史 」
岡田英弘 (おかだ・ひでひろ 1931~2017)
株式会社新書館 1997年10月発行・より
184年の黄巾の乱から、百年近くも中国の統一が回復しなかったのは、人口の極端な減少が原因であった。
戦乱のために農業がストップし、深刻な食糧不足になって、中国人の大部分は餓死し、中原(ちゅうげん)は千里、人煙を絶ったといわれる惨状で、まったくの無人地帯と化し、一度荒廃した耕地の再開発は、生き残った数少ない人手で、しかも戦争の片手間におこなうことは不可能であった。
食糧の備蓄がなく、しかも無人地帯で戦争するのだから、現地調達ができない。
だから長期にわたる作戦は無理で、そのために いつまでも決着がつかなかったのである。
(略)
この二世紀末の黄巾の乱から、六世紀末の随の中国統一までの、中国の人口減少期の四百年間は、東アジアでは朝鮮半島と日本列島で、原住民が政治的、経済的に成長して、それぞれ自分の文化の萌芽らしいものを持つようになった時期である。
もちろんこれは偶然の一致ではない。
もし黄巾の乱が起こらず、中国の人口があれほど激変しなかったならば、朝鮮半島も日本列島も巨大な中国の実力の前に完全に中国化して、
いまごろ われわれも中国語をしゃべり、毛沢東思想万歳や、四人組追放を叫ばなければ ならなかったかもしれない。
しかし黄巾の乱は起こった。
これが引き金になって、次から次へとハプニングが積み重なって、
中国ばかりでなく全東アジアの運命が変ってしまった。
日本列島では、これまで博多の倭奴国王が一辺倒の寄りかかっていた後漢の中央政府が消滅したために、倭奴国王の勢力は手のなく失墜して、「倭国は乱れ、あい功伐して年を歴(へ)た」 という混乱になった。
しかしこれまで奴国以外の倭人の諸国といっても、いずれも中国貿易の
お裾分けで成り立っていた程度で、大した実力があるわけでもない。
それでいくら争っても決着がつかず、とうとう政治力のない老巫女の卑弥呼(ひみこ)が諸国のあいだの調停役にかつぎ出されて、やっとどうにか収まったという次第である。
ここで注目すべきことは、黄巾の乱の影響で中国貿易の崩壊という危機に直面した倭人たちが、はじめて中国の皇帝の権威に頼らない、自前の政治組織らしいものを作ったという事実である。
(略)
しかし中国が分裂して手が回らなかったおかげで、
東北方では高句麗(こうくり)や、百済(くだら)や、新羅(しらぎ)や、
それに倭の五王の政権が育ってくる。
(略)
そういうわけだから、今日、日本民族、朝鮮(韓)民族が、それぞれ独自の文化を持ち、中国の一部になっていないのは、まったく 184年の黄巾の乱の連鎖反応で、中国の人口が四百年間も回復しなかったおかげで、ゆっくり時間をかけて自分を成長させる余裕があったからである。
中国の人口について宮崎市定が書いていましたので 2017年10月17日に 「中国の過剰な人口と戦乱」 と題して紹介しました。コチラです。す。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12318901769.html
鹿の方向転換 11月17日奈良県庁付近にて撮影