中国の過剰な人口と戦乱 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

       ~向井敏が宮崎市定について紹介しています~

 

              ~(注)青色の字は宮崎の文章です・人差し指~

 

 

「表現とは何か」

向井敏(むかい さとし 1930~2002)

株式会社文藝春秋 平成5年5月発行・より

 


「朝日新聞」夕刊の文化欄に、「しごとの周辺」 という連載のコラムがある。

各界の学者や専門家がそれぞれ旬日にわたって自分の専門にかかわる雑禄風の文章を載せるしきたりになっているようだが、今年(昭和63年)は年が明けて早々から、ここで思いがけぬ眼福にめぐまれた。

 

 

宮崎市定がこのコラムに筆をとり、歴史研究のあり方を論じて、旧に変わらず軒昂として意気さかんなところを見せてくれたからである。

 

 

 宮崎市定といえば、アジア史、中国史の分野で今日最も大きな存在。

歴史を社会的人間の生態学ととらえた内藤湖南の学風に連なり、『アジア史研究』(初刊昭和32年、以来概刊五巻、同朋舎)、『アジア史論考』(全三巻。初刊昭和51年、朝日新聞社)に収められた個別テーマの諸論考、ならびに『アジア史概説』(初刊昭和22年、人文書林。増補版昭和48年、

学生社。のち、中公文庫)、『中国史』(全二巻。初刊昭和52年、岩波全書)などの通史の仕事に見られるその力量の卓越は、人を畏怖させずにおかない。

 

 

研究内容の深さもさることながら、この人の文章を読むたびに圧倒されるのは、歴史という学問に対する天を衝かんばかりの覇気と情熱。

 

若いころなら覇気も情熱もあって当たり前だが、この人のように七十代になろうが八十代になろうが、青春の客気をつらぬきおおせるというのは、これは希有のことと言わなくてはならない。

 

 

そういえば、名著のほまれ高い 『論語の新研究』(初刊昭和49年、岩波書店)や新鮮でダイナミックな考察に満ちた 『中国史』を書きおろしたのも七十代の半ばになってからだ。

(略)

あるいは、治世と乱世が周期的に交差する、中国特有の 「一治一乱」 という現象を考察した 『中国史』 のなかの一章。春秋、戦国のころから秦の統一を経て漢楚の争覇戦が終わるころまで、中国では戦乱が相次ぎ、ことに大乱のあとでは人口が半滅したとも伝えられるが、宮崎市定はこの現象の底に、過剰な人口をどう処置するかという中国永遠の社会問題が横たわっていることを見てとった。

 

 

当時の人口はどれだけあったか分からないが、まだ開発の進んでいなかった時代においては、たとえ今日から見て問題にするに足りない少数の人口でも、それなりに飽和点に達してしまうと、余剰人口をどう処置するかという社会問題は不断に存在したのである。

 

言いかえれば戦乱が、戦乱を惹起した原因を消滅したことになる。

 

特に人民が城郭の中に住居し、耕地を城外に持つという社会形態では、城内の宅地はすぐ狭くなり、城外の耕地はあまり遠方まで開拓しては往復に時間がかかりすぎるから、耕地もまた狭隘を告げやすい。

それに灌漑設備が整わない土地では、凶作が屢々起る危険がある。

 

ところで大乱の後にもし人口が半滅したとなると、城内の居住地にもゆとりが出る。

耕地では最も水利に便で、肥沃な土地をまず耕すから、天候による減収の心配が少ない。

過去の傷痍さえ忘れれば、働き甲斐のある、暮らしよい世の中になったのである。

 

これは甚だ残酷なことである。

 

だが事実は中国において、其後もずっとこのような悲劇が繰り返されてきたのである。

 

そしてこれは歴史の中から十分に学ぶべき教訓である。

 

当時は統計的な見方がまず起らず、人口と資源、生産との関係を数量的に考えることもなく、周期的に起る大乱を不可避とし、機械的な一治一乱という運命論で片付けていた。

 

 

およそこんなふうに、宮崎市定は歴史を組みあげていく要(かなめ)となる事実や現象をしっかりととらえて、その事実の指し示す論理に沿って有無を言わさず叙述を進めていくのだが、それがやがてあの豪快な力動感をもたらすことになる。

 

 

 

 

5月18日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影