「 我等なぜキリスト教徒となりし乎(か) 」
安岡章太郎 (やすおか・しょうたろう) / 井上洋治 (いのうえ・ようじ)
株式会社光文社 1999年1月発行・より
[ 井上洋治 ] さらに言えば、疑うことを知っている人は、自分に完全
な自信がないということでもあり、また自分の無知を自
覚できる人でもあるということになる。
そういう人のほうが、疑いを知らない自信満々の人よりも幸せになれる。
たとえば、新田次郎(にったじろう)さんの小説にもなっている昔の八甲田山(はっこうださん)・死の行軍で二つの部隊のうち一方の部隊は全滅してしまうけれど、もう一方は助かります。
死の行軍となった部隊は自信を持って雪中行軍を敢行し、結果、悲劇をまねいた。
しかし、片一方の部隊は自信がないために地元の村の人に道案内を頼んで連れて行ってもらい助かります。
自分の無知を知っているから頼む。
自分以外のものに道案内してもらって、その力に頼って歩く。
だからこそ助かるわけです。
有名な聖書の言葉に 「心貧しき者は幸ひなり」 というのがあります。
心貧しいというのは、自信のない者、非力な者ということです。
そういう人は神に頼るしかない、だからこそ、結果としてそういう人は助かる、幸せだ。
「 心貧しき者は幸ひなり 」 という言葉の意味はそういうことだと思います。
助かって、救われる。 幸せというのは助かることです。
信仰というのは、救われて、苦しみから解放されたい、そうなりたい、そうなれるかもしれない、と何ものかを信じてみることではないでしょうか。
奈良公園の枝垂れ桜 4月8日撮影