「 随筆 一隅の記 」
野上弥生子 (のがみ・やえこ 明治18年~昭和60年)
株式会社新潮社 昭和60年10月発行・より
私の親しい精神科のお医者さんによれば、大部分の人間がたいていどこかおかしいのが実情で、まともな人間はめったに存在しないと主張する。
また狂っているか、狂っていないかは、外見や話などではなかなか判断しにくいものらしく、それについておもしろい話を聞かされた。
姉妹で姉は妹が気が狂っているといい。
妹はまた姉が近ごろおかしいのだという。
いろいろたずねて見ると、お姉さんは、自分がきれいに整理しておく箪笥(たんす)の着物を、妹がめちゃくちゃにひっかき廻してしまうと訴え、
妹さんはまた、姉は私の物をなんでも盗んでは隠すと訴える。
外出に跡をつけられるとの訴えも同じで、お姉さんは妹がきっと跡をつけるといい、お妹さんは姉がつけるという。
喧嘩ではないから大真面目に姉は妹の病状を案じてのうち明け話として、こもごも姉妹から語られたのだという。
親しいお医者さんからこの話を聞いた時、ずっとむかしに読んだ、たしかフランスのものであったかと思う短編が記憶によみ返った。
伯父が頭のおかしくなった甥(おい)を精神科医のもとに連れて行く。
ところが診察室で待っているあいだに、甥は突然伯父さんに飛びかかって組み伏せ、棚にあった狭窄衣(きょうさくい)をいや応なく着せてしまう。
そこへ奥から現われた医者にむかって伯父は叫ぶのである。
患者は甥であり、自分は彼の暴力によってこんなものを着せられたのだと。
甥はまた、こんなことをいって喚(わめ)きたてるのが伯父の狂っている証拠で、いまも急に暴れだしたので狭窄衣を着せたところだといいたて、それに憤慨した伯父が怒って騒げば騒ぐほど狂人にされてしまう。
まことに、こんな誤りが ただこの診察室のみにとどまるであろうか。
作者はその疑問を世上に投げかけたに違いない。
なおこの作品を私に想起させたのは奇妙な姉妹の話からだといったが、
ちょうど玉突き台の玉がキュウを放るや否やかちん、かちん別な玉にあたるように、伯父と甥のどちがが狂人とも見分けのつかなくなった話は、また私に、遠い過去になった西欧の旅のあいだに見た一つのものを思いださせる。
それはヒットラーの肖像である。
ドイツを歩きまわっていたころは第二次戦争が勃発する三ヶ月まえだから、到るところに彼の肖像に出逢った。
駅に行けば駅に、劇場に、学校に、カフェに、ホテルに泊ればどの部屋にもといった始末で、耳にはたえずハイル・ヒットラーがひびき、眼にはハーゲンクロイツのまっ赤な旗とともに彼の顔がへばりついた。
たしかミュンヘンであったかと思うが、朝食のあと、連れのあるじは近くにちょっと買物にでたので、帰りを待ちながらがらんとしたロビーに独りかけ正面の壁に型のごとく掲げられたヒットラーの半身像をつくづく眺めた時、それまで思惟のレンズにちらちらしながら焦点の合わなかったものが、瞬間ぴたりとひとつの映像にまとまった。
この人は精神異常者ではないだろうか。
ひろい額の片方だけに垂れた毛髪の一部が、そこへ飛んでくっ着いたような鼻の下のひとつまみの髭、硬直した頬、とり分けまなざしが著しい。
厳然と見すえているようで、なにに、どこに注がれているともあいまいな分裂的な視線は、いろは鳶(とび)いろかと思われる円いつぶらな眼に、権威や意思よりいっそ空ろな虚無感をただよわせている。
思うに、戦争といった行為が人間のまともな心で遂行されるものではないが、ヒットラーに関するかぎり、アウシュビッツの例を一つあげるだけでも、あの肖像から感じたものがまんざら見当違いではなかった気がする。
いまむごたらしい戦争がつづいて、わるくすれば第三次世界戦争にもなりかねないと案じられているベトナム戦ではハト派だとかタカ派だとか、ヒットラーの頃にはなかった用語が流行である。
さてそれでハトとタカと両族の大将を、精神科のお医者さんに診察させたらどんなものであろう。
春狂・・・・「朝日新聞PR版」 昭和42年6月11日、25日
12月3日 青葉台公園(埼玉・朝霞)にて撮影