江戸期のインチキ学者・佐藤信淵 | 人差し指のブログ

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「 これだけは聞いてほしい話 」

谷沢永一 (たにざわ えいいち 昭和4年~平成22年)

PHP研究所 1997年11月発行・より

 

 

 

 

以上が真面目な方々で、 一人だけ不真面目で無責任な人間がいて、  これが佐藤信淵である。

 

「ノブヒロ」 と呼ぶのが正しいのだが、通称 「サトウシンエン」 で、非常に有名な人物である。

 

 

私はこの佐藤信淵こそ日本の進歩的文化人の元祖ではないかと思っている。

 

 

この人は明和六年、十代将軍家治(いえはる)の時代に生まれて、嘉永三年、十二代将軍のときに八十二歳で亡くなっている長命な人だが、これがものすごく気宇壮大なる議論をする。

 

 

 まず、自制ということが君主の徳の第一であるという。

 

君主制反対ではないが、君主というのは江戸幕府のことで、君主たる者はとにかくあらゆる点において自制すべきである。

つまり孟子の論理をふりかざす。

 

 

次ぎに、開物、資源を開発しなければならない。

富国、商業をやらなければならない。

 

 

垂統、つまり教化機関、全国に小学、中学、大学のようなものをずっと配置しなければならない というような日本列島改造論を著述する。

 

 

そして日本の社会に六つの部局、つまり霞が関に官庁を置かなければならないという。

 

農事府(農林省)、開物府(林業・工業)、製造府(物を生産する)、融通府(金融)、陸軍府(交通も兼ねる)、水軍府(漁業も兼ねる)、そういう近代明治政府がつくったような政治組織をつくらなければならない。

 

 

そしてすべてを公営国有にせよということだから、結局、日本における国家社会主義の一番のはしりということになる。

 

彼が言っていることは、まことに理路整然として、雄大。

 

 

 これに対しては、おもしろいことに右翼と左翼の両方が影響される。

 

 

河上肇、大川周明、羽仁五郎と、右も左も信淵先生は時代を先取りした大変な構想力のある論理家であるという風な理解である。

 

 

 

 「 森銑三の輝かしい功績 」

 

 

  それに対して真っ向から冷水をかぶせたのが森銑三(せんぞう)で、森銑三が昭和十七年に 『佐藤信淵   疑問の人物   』 という本を出して、佐藤信淵の言っていることは全部、はったり、嘘、でたらめ、こけおどし、そして剽窃(ひょうせつ)であるということを文献的に証明する。

 

 

 佐藤信淵の著作が明治になって活字になったときには、『佐藤信淵家学全集』 という表題になっている。

 

 

佐藤信淵のいうのには、佐藤氏の学が、高祖父、つまりおじいさんの おじいさんから自分まで五代にかけて営々として著述し、研究を続けて、そして築き上げてきた集大成が自分であると彼は書く。

 

 

その一番の高祖父は歓庵、その息子が元庵、その息子が不昧軒、その息子が明窩、その息子が信淵というふうに五代にわたる学問である。

 

 

そして歓庵先生はこういう著作を書いた、元庵先生はこういう本を書いた、不昧軒はこんな著述をしたと信淵が書く。

 

 

 そして、その本は全部信淵の写した本として残っていて、四代の先行する人が書いた本は全国どこを探してもどこにも見当たらない。

 

 

それから、森銑三は全国の図書館の写本類をほとんどみな見ているのだが、それを写した写本というものは全国どこにもない。

 

だれ一人、門人の名前が出てこない。

 

 

その五代の間の同時代のいろろな随筆とか、世相、見聞録というもののどこを探しても、佐藤歓庵などという人がいたことを証明できる一行の文献も出てこない。 全部嘘なのだ。

 

 

つまり自分の学問だというだけでは世間に通りが悪いから、そこでなんと五代分つくってしまった。

 

 

高祖父の本を自分で書き、おじいさんの本を自分で書き、お父さんの本を自分で書く。

そして佐藤信淵の写本として全部伝えられている。

 

 

それを森銑三は木っ端みじんに、一切証拠がないと批判したのである。

 

 

 そのうえ、佐藤信淵が自分でいうのには、十八歳のときに津山藩に招かれて、二年間で藩政改革をやり、それまで赤字財政であったのを二年間で黒字にした。

 

 

また、自分はだれだれと論争して勝ったという、かくかくたる論争歴を自分で書く。

 

 

ただし、その相手は全部死んだ人ばかり。

そのときに生きている人物は出てこない。

 

 

そして荻生徂徠から盗み、あっちこっちから全部剽窃して、つなぎ合わせたのである。

 

 

 それゆえ、これは売名であり、盗作であり、非現実的であり、空理空論であり、日本の学問史上空前絶後のはったり屋ということは明らか。

 

 

これを森銑三が明確に一冊の本で きっちり論証した。

 

 

注・(人差し指~ウィキペディアによると、この森銑三の本が出た1942年、佐藤信淵の地元では困ってしまい、この著作に弾圧を加え遂に再販不可としたそうです。)

 

 

 ところが、それを認めないのが現在のアカデミズム。

森銑三を無視するのである。

 

 

岩波書店が出した全六十七巻の聖徳太子から江戸末期に至る 『日本思想大系』 のなかに、一冊の半分として 「佐藤信淵」 というのがちゃんとある。

 

 

それを担当したのが東大出身の尾藤正英という近世思想史のトップクラス。

 

この尾藤正英がどう書くかというと、思想大系の序文のところに、

「信淵の場合にも、その大量の著書の多くの部分が他人の著述からの剽窃によって成っていたことが森銑三氏らによって指摘されている。

その意味で、学者としてみれば、この人は余り尊敬に値する人物ではないかもしれない。

しかし、いわば未来を先取りした彼の壮大な構想力と独創性にはそれを補って余りあるものがある」  という言い方をする。

 

 

 たとえば、渡辺与五郎という学者が、膨大な五十ページに及ぶ 「佐藤信淵研究文献目録」 を亜細亜大学の雑誌に載せている。

それを通覧しても、森銑三と同じように、信淵のにせもの性を指摘した人はゼロ。

 

だからこれは森銑三だけの輝かしい功績である。

 

 

尾藤正英は、それが森銑三 一人であることを認めることすら嫌なのだ。

 

 

だから森銑三が言っているようなことは ほかにも言ったやつがいるという意味で、「ら」 をつける。

この 「ら」 には千鈞(せんきん)の重みがあると私は思う。

 

 

 そういう言い方で、いまだに佐藤信淵は生きている。

しかし、全部空理空論。

 

 

これを思想史というなら、ほら吹き、でたらめと思想史の区別がつかなくなるから、本当は不自然でおかしい。

 

 

 つまり信淵は何としてでも有名学者になりたかった。

 

そして権威が欲しかった。そのためにはどんな嘘をついても平気、何らやましいところなしという人物だった。

 

 

しかもそれが右翼と左翼の両方の学者によっていまだに尊崇されているのだから、進歩的文化人がもてるはずだ。

 

 

つまり具体論がなくて抽象論だけであっても、剽窃だけであっても、何かの権威というもの、それも普通の進歩的文化人は本物の権威、マルクスとか何とかを借りてくるわけだが、信淵は自分で権威までつくったのだから、日本最高のペテン師で、同時に、このやり方というものが時代を超えて今日に生きているのではないかと思う。

 

 

 

 

 

                   10月17日 朝霞市内(埼玉)にて撮影