中国の客家とは | 人差し指のブログ

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「 封印された中国近現代史 」

宮脇淳子 (みやわき じゅんこ 1952~)

株式会社 ビジネス社 2017年11月発行・より

 

 

 

客家は、「客」 という漢字が示している通り、その土地によそから来た

一族です。

 

 

 客家は、宋(そう)代のころに戦乱を避けて中原(ちゅうげん)から南方に移住した人々の子孫であると言われていますが、正確にはモンゴル帝国のせいで南下したのです。

 

 

チンギス・ハーンの孫のフビライが、今の北京を都として元(げん)朝を建て、南宋を滅ぼしてシナ全土を支配しました。

 

 

遊牧民たちはモンゴル草原から南下して黄河中流域に村を作って住みついてしまいました。

 

だから、その土地の住民たちは追い出されて南下することになったのです。

 

 

 客家が南下したときには、沿岸の平地はすでにかつての越(えつ)人の子孫である広東(カントン)人や福建(ふっけん)人が農地にしてしまったあとでした。

 

 

それに、客家がもとから住んでいた黄河中流域も山間部だったので、内陸部を南下して生活条件の悪い山間部に入植することになりました。

 

 

 客家も漢族ですが、移住後も、客家語と呼ばれる独自の方言や生活習慣を守りつづけたため、移住先で社会的な差別を受けることも多かったのです。

 

 

しかし、だからこそ、彼らは 「自分たちこそ漢人の正しい末裔であり、中華の本流である」 と信じ、血縁関係を中心とした結束力を高めました。

 

 

 福建省西部や広東省東部の要塞のような集合住居(円楼)は、そのような客家の境遇を今に伝える代表的な建築です。

 

 

また、長く黄河文明の発祥の地で暮らしていた客家の方言は、もっとも古い漢語の特徴をとどめていると言われています。

 

 

 山岳地帯に入植して貧しい生活をすることになった客家の人々は、教育熱心で、女も大事な労働力なので、シナの他の地域で流行した纏足(てんそく)をしませんでした。

 

男女ともよく働き、一族のネットワークが強いという特徴があります。

 

 

 清朝時代には、親類縁者がお金を出し合って、優秀な子供を科挙(かきょ)に合格させようとしましたし、のちには新天地を求めて台湾や南洋の各地に移住する客家も増えました。

 

 

客家のネットワークは今でも世界中に広がっており、客家コネクションと言われるほどです。

 

 

 辛亥革命で臨時大総統にかつがれた孫文(そんぶん)も広東省生まれの客家ですし、中国の鄧小平(とうしょうへい)も、台湾の李登輝(りとうき)も、シンガポールの リー・クワンユーも客家です。

 

 

この他にも、二十世紀の中国の革命運動において客家が果たした役割はひじょうに大きいのです。

 

 

それは、話しことばが違えば ほとんど異民族扱いをする中国人の中で、彼らのネットワークがとてもよく機能したからでしょう。

 

 

 

                                       

 

 

2017年12月12日に~中国の中の「民族の上下」~と題して加瀬英明の文章を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12342019457.html

 

 

 

 

朝霞(埼玉)の花火大会  8月4日 中央公園にて撮影