「 森鷗外 」
高橋義孝 (たかはし よしたか 1913~1995)
株式会社新潮社 昭和60年11月発行・より
対比的な関係はまだいくらもこれを指摘することができる。
鷗外の生涯は公人の生涯 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セントス」 と
わざわざ遺言にいったほど、それほど公人の生涯であったが、漱石の生涯は私人のそれであった。
「メエトル」 鷗外は、軍人であり官吏であり、夥しい数の肩書、栄誉、位階勲等を持ったが、漱石 「先生」 は中学校、高等学校、大学とそれぞれに英語教師をつとめての挙句が一新聞社員、文士、つまり野人となる。
鷗外のある年の元旦は、まず宮中に参賀することから明けて行く。
ついで楠瀬陸相、Rex伯、奥田文相、閑院宮、青山御所、寺内正毅伯、高輪御所、久邇宮、石黒忠直男、荒木博臣、亀井玆常伯、の諸第に年賀に廻る。
翌二日は陸軍省の自動車で本郷房太郎、伏見両宮、柿内三郎、梨本宮、河村金五郎、柿内信順、渡辺宮相、荒木虎太郎、小金井良精の諸家に挨拶に行く (大正三年)
さて漱石はどうか。
漱石は三四人の若い人たちと、書斎で屠蘇を飲んだり膳のものをつついたりした挙句、虚子の鼓で 「つるつるした油を塗った様な聲」 (内田百閒『漱石山房の記』) で羽衣のクセを諷い出す。「細君(さいくん)迄一所(までいっしょ)になつて夫(おつと)を貶(くさ)した末(すゑ)、高濱(たかはま)さんが鼓(つゞみ)を御打(おう)ちなさる時(とき)、襦袢(じゅばん)の袖(そで)がぴらぴら見(み)えたが、大變好(たいへんい)い色(いろ)だったと賞(ほめ)てゐる。」 漱石は 「虚子(きょし)の襦袢(じゅばん)の袖(そで)の色(いろ)も、袖(そで)の色(いろ)のぴらぴらする所(ところ)も決(けっ)して好(い)いとは思(おも)はない」と負惜しみをいっている(『永日小品』)。
これが漱石山房の元旦風景なのだ。
~ 「夏目漱石と森鴎外」 は実に対照的な人であったという事を幾つも紹介してきました。~
2016年7月7日に~「漱石の落語」と「鷗外の標準語」~と題して
丸谷才一と山崎正和の対談を紹介しました。コチラです。 ↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12175524212.html
9月2日に 「漱石と鴎外の同じ日の日記」 と題して高橋義孝の文章を紹介しました。コチラです。↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12393375990.html
朝霞(埼玉)の花火大会 8月4日 中央公園にて撮影