アメリカ西部の開拓 | 人差し指のブログ

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「 アメリカの小さな村から 」

加藤秀俊(かとう ひでとし 1930~)

朝日新聞社 1977年2月発行・より

 

 

 

 このメープル・パークのあるあたりに、1836年の夏のある日、

陸軍大尉J・ブーンのひきいるアメリカ陸軍の一中隊がやってきた。

 

 

西部巡察の帰途に、たまたまここにたどりついたのである。

 

 

炎天下の連日の行軍で疲れ果てていた兵士たちは、清冽なメープル・リバーの流れに歓声をあげた。

 

 

ブーン大尉が休止の命令を下すのを待ちかねて、兵士たちは川にとびこみ、汗と泥を洗いおとした。

 

 

巡察隊の予定はかなり融通がきく。

大尉は木陰に寝そべって、この川岸で中隊を二日ほど休息させようと決心する。

 

 

単調な行軍のつづいたあと、このゆたかな水と緑の森は、何にも えがたい救いであり、慰めなのであった。

 

 

 メープル・リバーの印象はブーン大尉にとってよほど強烈なものであったらしい。

かれは故郷のウィスコンシンに帰ってからも、この川のほとりの美しさを友人たちに話つづけていた。

 

 

その友人のひとりに、ニューマンという若ものがいた。

 

 

かれは、ブーンの話を、たんなるみやげ話としてでなく、じぶんの行動計画の参考として真剣にきいた。

ブーンの話を総合してみると、どうやら、そのメープル・リバーのほとりは、理想的な農場になりそうだ。

 

 

 翌々年の春、ニューマンは身のまわりのものをつめて馬にのせ、ひとりで西に向って出発した。

 

 

目的地は、いうまでもなく、ブーン中隊が大休止したメープル・リバーの岸である。

 

 

約二週間で目的地についた。 なるほど、これはすばらしい。

ニューマンは無条件でここが気にいった。

 

 

到着の翌日から、木をきりはじめた。

ひとりで丸太小屋を建てようというわけである。

 

 

一ヶ月かかって、どうやら住むところができた。

小屋のまえの川に釣り糸をたれると、おもしろいように魚がかかってきた。

 

 

ニューマンは、ここで築くべき農場のプランを頭にえがきながら、夏いっぱい、ここで暮らし、いったん故郷に帰った。

 

 

秋から冬をここですごすだけの食糧がなかったからである。

 

 

翌春、つまり、1839年、雪どけを待ちかねて、ニューマンは丸太小屋にもどった。

こんどは、永住のつもりであるから、途中で穀物の種子だの、家畜だのを買いととのえながら一ヶ月かかって到着。

 

 

 ところが到着してみておどろいた。

 

じぶんのつくった丸太小屋は健在なのだけれど、川の向こう岸にもおなじような丸太小屋があって煙突から煙りが出ているではないか。

 

 

カヌーをこいで行ってみると、中年の夫婦ものが出てきた。

 

ニューマンをみると、べつにおどろきもせず、ああ、おまえさんがあの小屋の持主なんだねえ、もうそろそろ帰ってくるころだと思ってたよ、などという。

 

 

 この夫婦は、ハンナという。

かれらは、オハイオ州から農場をさがして西へ西へとやってきた。

たまたま前年の初秋にここに来たら丸太小屋が一軒たっている。

 

 

よくみると、ここは地味がゆたかで水利もいい、だれかがここに住む予定らしいから、ひとつ、われわれもここに住むことにしよう、というので、反対がわの川岸に丸太小屋をつくって一冬をすごし、向こう岸の空家の主の帰りを待っていたというわけだ。

 

 

 土地は無限にひろいし、川の水量もおそろしくゆたかである。

しかも、川のむこうとこっちにわかれているのだから、境界争いだの水争いだのといったみみっちい話は起こりえない。

 

 

それに、こんな荒野のまんなかなのだから、隣人がいてくれたほうが なにかにつけて心丈夫だ。

ニューマンとハンナは、こうして打ちとけた友人になった。

 

 

冬になると川は氷ついて歩いて わたれるから、かえって往復も便利である。

孤独からの救いを彼らはお互いに求めあい、あたえあって生きた。

 

 

 

 ところで、アメリカの西部開拓史は、人間生態学のひとつのおもしろい事例を示しているように わたしには思える。

 

というのは、だれか、ひとりでも、ふたりでも、どこかに丸太小屋をたてると、その後数年のうちに、どこからともなく人がやってきて、集落ができてしまうからだ。

 

 

だれもいないところにさいしょに住む勇気のある人間は、そうザラにいるものではない。

 

 

だが、そういう希有の人間がひとり住みはじめると、それをきっかけにして、ぞろぞろと人間が住むようになるのである。スプリングフィールドも、その例外ではない。

 

 

 ニューマンの丸太小屋をきっかけにして、どんどん人間がふえた。

1846には学校ができた。

1850年には、さいしょの 「よろず屋」 が店をひらいた。

 

 

そして1851年、郵便局が開業。そのころになると、もうだれがさいしょに ここの大地にクワをいれたか、ひとは忘れてしまっている。

 

 

 

(略)

 わたしは子どものころ、満州(現在の中国東北部)で暮らしたことがある。

この寒さはかならずしも はじめての経験ではない。

 

 

しかし、しみじみとこの零下30度をかみしめてみると、はじめてこの土地に住む決心をした開拓者というのは どえらい人間たちであると思わざるをえない。

 

 

いまとちがって、開拓時代    19世紀なかば   のスプリングフィールドには暖房などという気のきいたものはなかった。

 

 

暖房どころか、家だって満足なものではなかった。1850年にこの町をとおった旅行者の日記がのこっている。それによると      

 

 「家には床がない。わたしに一夜の宿を快く提供してくれた農家で、わたしは野牛の皮をからだにまきつけて土間に寝なければならなかった。翌朝、わたしはじぶんが雪のなかで寝ているのに気がついた。丸太小屋のすき間から雪がひと晩じゅう吹きつけていたのである」

 

 ひとびとは、この冬に耐えなければならなかった。

 

 

 

 

                                        

 

 

 

 

7月27日に 「米国で金鉱脈を見付けた人は・・・」 という題で小室直樹の発言を紹介しました。コチラです。↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12385515237.html

 

 

 

4月11日に 「米国の田舎が貧しかった1919年頃」 と題してE・コールドウェルの文章を紹介しました。コチラです。 ↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12361775242.html

 

 

 

 

朝霞(埼玉)の花火大会  8月4日 中央公園にて撮影