米国の田舎が貧しかった1919年頃 | 人差し指のブログ

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「作家となる法」

E・コールドウェル (1903~1987)   訳者・田中融二

株式会社至誠堂 昭和40年7月発行・より  

 

 

 

 

  1918年     私が15歳の年に、ある一定の条件のもとでは仕事によって金をかせぐことができること、しかし別の状況下では労働が かならずしも報酬を生まないことを私は学んだ。

 

 

当時 私の両親は、ジョージア州ジェファソン郡のレンズに移っていた。

 

それはサバナ州の西方48キロの綿の耕作地帯にある人口1200人の小さな町だった。

 

そこで私の父アイラ・S・コールドウェルは長老派教会の牧師をしていた。

 

(略)

 

 

 1919年の夏のはじめ、私はジェファソン、パーク、グラスコックの各郡のあちこちの入江や丘ぞいに、何キロにもわたって散らばった患者をもつ地元の医者の一人と、自動車に乗って田舎をまわるようになった。

 

 

私は自動車の運転と、簡単な小修理を引き受けたが、謝礼はもらわなかったし、もらおうと期待もしなかった。

 

私はただ、田舎では人がどんな生活をしているかをみることに興味があり、その機会に恵まれることがうれしかった。

 

ときおり、医者は一晩じゅう起きていなければならないこともあった。

 

そして、私がチューブを修繕しているときとか、患者の家から家へと車を走らせている間、ぐっすりと眠りこんでいた。

 

かれは診察料を払える相手と払えない相手を区別せず、また必要な薬をただで与えることもしばしばあった。

 

(略)

 

 その後、こんどは、自己の政治的地盤の手入れと税金の査定の調整を、同時にやってのけようとしている郡の税金査定人に同行して田舎へ出かけるようになった。

 

(略)

 

 この夏はまた、ときどき父が、田舎のほうに住んでいる教会の会員を訪ねるとき、私を同行させてくれた。

 

しかし教会の会員だけを訪ねたのではなかった。それよりむしろ、教会へ行かない人の家を訪ねることのほうが多かった。

 

(略)

地主はたいていウェインスバロやルイスビル、あるいはレンズなど、近隣の町で比較的裕福に暮らしていたが、田舎そのものは どちらを向いても貧乏人ばかり     ただ貧乏の度合いに差があるばかりであった。

 

 

 ときには、父が感慨を述べずには眺めすごせないほど悲惨な貧窮のしるしや証拠にぶつかった。

 

 

 

父は雑草で境がついた道路に車をとめ、綿畑ごしに、いま出てきたばかりの一部屋か二部屋きりの小作人のあばら屋を見やるのだった。

 

 

腐れかけた掘立小屋には、たいていベッドと何枚かのわらぶとんと、料理用の焜炉(こんろ)と、背のまっすぐな いたんだ籐椅子が何脚かあるばかりだった。

 

「かわいそうに、あの小屋の住人は、一生、現在の境遇から抜け出せる見込みがないのだ。まるで、せまい竪穴に落ちこんだヒキガエルのようなものだ。人間があのように生きなければならないというのは、ひどい恥辱だ。

そしてあの子供たち。あの子たちは、大きくなったらどうなるのか?やっぱり穴の底のヒキガエルになるのか?」

 と父は悲しそうに言うのだった。

 

 

 この間には答えがなかった。なぜなら、父も私も答えを知らなかったからである。

 

 

ややあって私たちは、つぎに訪ねようとする小作人の家に向って、午後の暑さのなかを黙々と車を走らせるのであった。

 

 

 われわれ自身、金持ちだとか、裕福だとか みなされるべき境遇ではなかった。

しかし私が会った人たちは、たいていもっとずっと低い経済状態にあった。

 

 

神学校を出てはじめて牧師になってからの父の俸給は年間400ドルで、収入をふやすために教師を副業にした時期をふくめて、かれは生涯、年に2000ドル以上の収入があったためしはなかった。

 

 

しかし教会には、農作物という形での援助を定期的に牧師の家族に与える長年の習慣があった。

 

 

 それは教会の比較的裕福なメンバーが、0.5キロあるいは、数キロの肉、小麦粉、砂糖その他の主要食糧を、年に何回か牧師館にもってくる風習であった。

 

私たち一家はけっしてひもじい思いはしなかったが、ちょうど食べたいなと思うものが ないことはしばしばだった。

 

 

しかし私たちの周囲では多くの人びが、来る年も来る年も飢えに苦しんでいたことは疑いもなかった。

 

 

私といっしょに田舎を旅行する間に、父が食べものを乞われなかったことは一度も記憶にない。

 

私たち三人の食糧もあまり十分にはないと母が言うときでさえ、父はかならずジャガイモや小麦粉、あるいは あらひきトウモロコシやエンドウの袋を車に積んで出かけるのを常とした。

 

母はたいてい老人や子供たちのためのキャンデーの 一袋をそれに追加するのであった。

 
 
 
 
北の丸公園(東京・千代田区)の枝垂れ桜 3月26日撮影・