戦国武将の妻は怖い   | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

「  織田信長  新装版  」

会田雄次 / 原田伴彦 / 杉山二郎

(株) 思索社 1991年9月発行・より

 

 

 

会田  ただ、大名の娘に生まれた女の使われ方なんですが、これは人質

     でも政略結婚でも、おおむねそこまでの、非常に受け身な使われ

     方じゃないですか。

 

 

     そこはヨーロッパでしたらちがう面がある。

 

 

     イタリアでいいますと、今でもフィレンツェのポンテ・ベッキオの近く

     で売ってますけれど、指輪がある。

 

 

     指輪の石のところをポンとあけると、今だったら男の写真ですけれ

     ど、昔は毒薬を入れていたんです。

 

 

     その模造品を売ってます。

 

 

     首飾の先がとがっていて、針になっていた、これでちょっとつきさし

     たら相手を殺せる      そういうのもある。

 

 

     それを嫁入り道具として持ってゆくわけです。

 

 

     なぜかというと、つまり彼女は刺客なんですよ。

     寝処まで平気で入れるのは奥さん以外にない。

 

 

     ですからヨーロッパ世界ですと娘の場合、刺客にまで使われると

     いう陰惨で積極的な道具としてあらわれる。

 

 

     日本の方は信長の周辺だけ、お濃帰蝶の伝説、実はお濃がスパ

     イだったとかいう、ヨーロッパに見えるような伝説がつきまとうんで

     すね。

 

 

     例の斎藤道三が娘が嫁入る時に短刀を与えて隙があったらこれ

     で信長を刺し殺せといった話ですね。

 

 

     ルネッサンスでも同じです。

 

 

     ということは、逆用した信長自身がいかに進歩的   というとおか

     しいけど、時代よりも抜けて、女でさえもいやに積極的に使おうと

     いうところがあったといえますね。

 

 

     個性発揮といったらおかしいいけれど、能動的な役割を女性にさ

     えも課した。

 

 

     ほかの伝説では女はどうも消極的な、せいぜい人質ぐらいの役割

     しかない。

 

 

     スパイなどという役割を果たしていない。他にこんな話があります

     かね。

 

 

原田  これもあとからの作った話だと思うが、加藤清正の正妻というのは

     家康の養女なんです。

 

 

     本多なんとかの娘でね。この話もうまく出来すぎているんだけど、

     加藤清正が昼間、城で政務をとっている時は刀をさしてない。

 

 

     奥の私室に帰ると刀をさしてる。

 

 

     家来が殿様、それは反対じゃありませんか、表は危ないけれど奥

     へ帰ったら安全だから刀など持たなくてもいいじゃないですかとい

     ったら、清正が、いや反対だと。

 

 

     表はみんな信頼できる者ばかりだけど、いちばん危ないのは女房

     なんで、ここでは刀はうっかり離せんといったというんです。

 

 

     清正が毒饅頭で殺されたのは女房が盛ったんだという話があるく

     らいなんでね。  これなんか一例ですけど。

 

 

会田  そういうのは時代が下がる。信長が消えた頃ですね。

 

 

原田  この話も危ないけれど、物好きなやつがつくったのか、あるいは火

     のないところに煙は立たずなのか。

 

 

会田  『信玄家法』 の中で女房と寝る時でも刀を離したらいけないという

     のは、女房が斬るんじゃなしに、いつ敵がやってくるかも知れない

     という、それだけのことなんでしょう。

 

 

     女房が殺しよるからというのはあんまりなかったんじゃないですか

     ね。 この時代では。

 

 

原田  一つの例は、清正とちょっと事情がちがうが、おなじ肥後に甲斐

     宗運というたいへん剛勇な武将がいた。

 

 

     阿蘇大宮司家の下にいる大名です。

 

 

     いまでも肥後では、菊池武光や清正とならぶ人気のある武将で

     す。

 

 

     これが相良や島津としょっちゅう戦っているんですけど、宗運の孫

     娘が島津方の木山惟久という武将のところへ嫁に行って、これが

     夫の言うことをきいて宗運を茶の湯で毒をのませて殺してしまう。

 

 

     宗運が死んで阿蘇大宮司家は勢いを失い、島津が進出して肥後

           を支配する。

 

 

     こういうように祖父を殺しちゃうケースなんかもありますね。

 

 

 

 

 

 

10月12日 朝霞市内(埼玉)にて撮影