~難しい字や言葉などは少し変えてあります(人差し指)~
「 完本 茶話 上 冨山房百科文庫 37 」
薄田泣菫 (すすきだ きゅうきん1877~1945)
合資会社冨山房 1986年7月発行・より
あるとき門司で若い芸妓(げいしゃ)が亡くなつた。
流行(はやり)つ妓(こ)だけあつて、生きてゐる間(うち)には、色々な人に愛相(あいそ)よくお世辞を言つてゐたが、亡くなる時には誰にも相談しないでこつそり息を引取つた。
枕許(まくらもと)に坐つて看護をしてゐた妹芸者が、何か言ひ残す事は無いかと訊ねると。
「三毛猫を空腹(ひもじ)がらさんやうに頼みまつさ。」
と言つて淋しさうに笑つた。
呉々(くれぐれ)も言つておくが、その芸者が最後まで気にかけてゐたのは三毛猫の事で贔屓筋(ひいきすじ)のお医者さんや、市会議員を空腹(ひもじ)がらせるなと言つたのでは更々ない。
その事が土地の新聞に載つたのがふとした事で俳優の鴈治郎の目に止まつた。
鴈治郎は その折り玉屋町の自宅で、弟子に按摩(あんま)を揉ませながら新聞を読んでゐた。
で、その芸者の亡くなつた記事が目につくと 「呀(あ)」 と言つたが、
直ぐ顔を揚げて倅(せがれ)の長三郎を呼んだ。
「長公、長公は居やへんか。」
長公は隣の室から返事をした。
「何や、阿爺(おとつ)さん。」
鴈治郎は声のする方を覗き込むように一寸首を伸ばした。
「そこに居よつたんか。お前あの門司の△△はんと関係があつたんやろ。そやなあ」
長三郎は他事(ひとごと)でも訊かれたやうな軽い調子で答へた。
「ふん、関係しとつた。何(ど)うしたんや、それが」
「△△はん、死によつたぜ。」
「さよか。」。
長三郎は起き上らうともしなかつた。
かれは腹這(はらばひ)になつて、舶来の玩具(おもちや)を弄(ひね)くつてゐるのだ。
親子が顔をも赧(あか)めないで、平気で自分の情事(いろごと)を話し合つてゐるのが俳優の家庭である。
舞台で人生を演活(しいか)すためには、平素(ふだん)からかうした囚(とら)はれない情態が必要なのか、それとも舞台の心持が家庭生活にまで伝染(うつ)つてゆくのだらうか。
孰方(どちら)とも真実(ほんとう)なのは、親子のどちらもに取つてこれが一番都合がよいからであらう。
(大正5年 8月1日)
これ、ちょっと分からない所がありますよね。誰がどこで聞いていたんでしょうか。近くに居た誰かが泣菫に伝えたのでしょうか?
薄田泣菫は鴈治郎のことが嫌いだったようで この本の別の所でも彼の悪口を書いています。(人差し指)
ヤマルリソウ 多摩森林科学園(東京・八王子)にて4月9日撮影