歌舞伎とシェークスピアの時代錯誤 | 人差し指のブログ

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「半日の客 一夜の友 丸谷才一・山崎正和対談11選

丸谷才一 (まるや さいいち) / 山崎正和 (やまざき まさかず)

株式会社 文藝春秋 平成7年12月発行・より 

 
 
 
 
 
<丸谷>     それとはまた別に、日本の相撲においては、
           力士は髷をつけていて、裸で褌ですよね。
 
 
 
これは、江戸時代の相撲の風俗といっていいでしょう、髷をつけているんだから。
それから行司のあの なりは、平安朝から室町までの感じでしょうね。
 
 
 
それから、呼び出しは、着ているものは、まあ江戸時代でしょうが、髷は現在はないから、あれは明治以後のヘア・スタイルなわけです。
 
 
検査役も、あれは紋付ですから、明治以前の江戸時代ですね、着ているものは。
 
ただし髪はハイカラで、九重親方なんかは眼鏡をかけているから、まさしく明治維新以後なわけです。
 
  ということは、つまりいろんな時代がごちゃごちゃしているわけですよ。
(略)
 
 
   ところが、あれとよく似ているのが、歌舞伎の芝居のつくり方ですね。
鎌倉時代なのに江戸風俗が闖入する。
 
 
『義経千本桜』 なんか典型的にそうですね。
 
鮨屋なんかが出てくる。あるいは、鎌倉よりもっと前の平安時代であるはずなのに、江戸中期の風俗とごちゃごちゃになっている。
 
 
菅原道真が出てくる芝居なのに、江戸の武士や町人とまったく同じものの考え方、’なり’をする人間が出てくる    。  それが、歌舞伎ですよね。
 
 
 
この歌舞伎のごちゃごちゃ性というのも、ついこの間まで、憫笑されたり
同情されたり、あるいは寛大に見逃されたりという調子で、
どちらかといえば、マイナスの方向で受け止められていたようです。
 
 
 ところが、シェイクスピアも同じことをやっているわけですね。
 
アナクロニズム、時代錯誤という点から考えてみると、ローマ時代のローマの貴族たちが、エリザベス朝のイギリス人とまったく同じことをやっている。
 
 
 
それから 『ジュリアス・シーザー』 のなかで時計が鳴ったように憶えていりんだけれども、そんなふうに いちいち変なことが行われていて、
それで平然としている。
 
 
 
それだって、シェイクスピアの場合 「シェイクスピアは無学だったからこういうことをやったんだ」 とか、「シェイクスピアは学はあったけれども、当時のエリザベス朝のお客は、低級だったから、こういうことをやると喜んだ」 とか、そういうふうに受け止められていたように思うんです。
 
 
 
  でも、たとえば最近のピーター・ブルックの演出なんか、見ると西洋の風俗なのか、中近東地方の風俗なのか、日本なのか、中国なのかわからないような、ごちゃごちゃした風俗をまぜて、『真夏の夜の夢』 を演出するというようなことがある。
 
 
 
 
 
4月9日 多摩森林科学園(東京・八王子)にて撮影