~昔の言葉や漢字など難しい所はちょっと変えてあります(人差し指)~
「 完本 茶話 上 冨山房百科文庫 37 」
薄田泣菫 (すすきだ きゅうきん 1877~1945)
合資会社冨山房 1986年7月発行・より
新著 『きのうけふ』 で、今は亡き数(かず)の山田美妙斎を始め、尾崎紅葉、斎藤緑雨、二葉亭四迷などの逸事を書いた内田魯庵氏は、友人の台所の小遣帳から晩飯の菜まで知りぬいてゐるのが自慢で、隠し立てをする友人には随分気味を悪がられた程の人だ。
今では丸善の顧問で、禿げ上がった額をなでながら一流の皮肉で納つてゐるが、時折店の注文帳を調べてみて、A博士は先頃何かといふ本を取寄せたと思つたら、それが直ぐ論文になつて翌月の雑誌に出たとか、B小説家の新作小説は、先日月賦払いでやつと買取つたモウパツサン全集の焼直しに過ぎないとかいふ事を極内々で吹聴するのを道楽にしてゐた。
むかし笠置(かさぎ)の解脱上人[貞慶] が栂尾(とがのお)の明恵上人を訪ねた事があつた。
その折明恵は質素な緇衣(しえ)の下に、婦人の着さうな緋の勝つた派手な下着を被(き)てゐるので、解脱はそれが気になつて溜らなかつた。
出家の身分で、とりわけ上人とも呼ばれる境涯でありながら、こんな下着を被てゐるとは実際どうかしてゐるなと思つた。で、話の途切れに、
「つかない事を言ふやうぢやが、つひぞ見馴れない立派な下着を被てゐられますな」
と幾らか皮肉の積もりで言つてみた。
すると明恵は言はれて初めて気がついたやうに、
「これでござるかな」
と一寸自分の襟をしごいて見せた。
「これはかねて私に帰依してゐた或る町家の一人娘が亡くなつたので、その親達から何かの代にと言つて寄進して参つたから、娘の菩提のためと思つて、一寸身に付けてゐるような仕儀で えらい所へお目が留まりましたな」
と言つてつつましやかに一寸わらつてみせた。
解脱上人はそれを聞いて、
「要らぬ所へ目がついたな。ほんの一寸の間でもそんな所へ心を遣(や)つたと思へば、明恵の思はくも恥(はづか)しい」
と顔から火が出るやうな思ひをしたさうだ。
何も魯庵氏の事をいふのではないが、世の中には随分緋の下着を見つけたのを自慢に吹聴する者が居ないでもない。
よく断つておくが、何も魯庵氏の事ばかり言つたのではない。
(大正5年4月29日)
3月31日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影