「学生との対話」
講義 小林秀雄 (こばやし ひでお 1902~1983)
編者・国民文化研究所会・新潮社
株式会社新潮社 2014年3月発行・より
<小林> 僕の話は参考として聞いておいてください。
江戸時代の学者、インテリというのはだいたい武士です。
これは山鹿素行(やまがそこう)が書いていることです。
あの人は初めて武士道、士道という哲学みたいなものを書いた人で、
あの人の思想が当時一般的に受け入れられていたものだと見ていいでしょう。
身分制度がはっきりしている時代に当然起こる考えなのだが、
武士というものは、禄(ろく)をもらっています。
そして何もしない、することがない。
武士は食わしてもらっている階級です。
激しく働いているのは農民です。
農民は激しく働いているのだから、責任がない。
しかし、武士は禄をもらっているのだから、責任がある。
農民や町民を指導しなくてはいけない。それが武士道で、つまり武士道というのは 「いいか、おまえはインテリなのだ」 という思想なのです。
インテリというのは、特権階級だ。責任をもった階級なのだ。
もしもこの責任を果たすのが嫌ならば、百姓になれ、百姓になって朝から晩まで働け。
そうすれば、その責任を果たさなくても天は咎(とが)めないであろう。
だけど、禄をもらっていて責任を務めないのは天理に背くことだという思想です。
ですから、あの頃のインテリというのは、そんな責任感をまず身につけなくてはならなかった。
この責任は、学問をする責任でもあります。
人生いかに生くべきか、自分で体得し、人に教える責任があった。
この責任は天から負わされているのだから、逃れることはできない。
それが素行などが説いた身分論ですよ。
『 「宗教とオカルト」 の時代を生きる智恵 』
谷沢永一(たにざわ えいいち) / 渡部昇一(わたなべ しょういち)
PHP研究所 2003年7月発行・より
<谷沢> 武士道は元和偃武(げんなえんぶ)以後、
つまり徳川家康が豊臣家を滅ぼして完全に天下を取った後、日本の内部で発生したものです。
たとえば、先祖が関ヶ原で戦ったおかげで禄をもらっている武士ならば、立派な先祖にふさわしい振る舞いをしなければいけない、というような気持ちが出てくるわけです。
(略)
武士道とは、支配階級としての誇りに基づく恥を知る自己鍛錬の自立精神と、労働を免じられ禄を給せられている特権階級として、民を慈(いつく)しみ世を平らかに保つ義務感とが、表裏をなしている毅然たる姿勢を意味します。
近世期は町人を罰する規定のみあり、武士に刑を施す法はありませんでした。
武家は自分の不始末を自分で解決したものです。
彼らに強固な誇りがあったればこそ、黒船の来航にまず怒りを発したのです。
また維新後は臆病な町人に先駆けて、積極的に新しい企業に身を挺したのです。
<渡部> また、平和になると、武士は無為徒食(むいとしょく)の輩
になってしまいます。
良心ある者はこれを恥じ、自分たちが存在する意義を必要とした。
そこで、働いている庶民に対して手本となるような行き方をする、
という理屈を考え出した面もあるでしょう。
無為徒食でいいのかしらという、あの反省力というのは大したものです。
剣術が武士の心得などと言われるようになったのも江戸時代ですね。
宮本武蔵は平和の象徴だ、と私はよく言うのですが、鎧を着ている相手に刀で斬りかかっても、刀はすぐひし曲がったり、折れたりします。
したがって、戦国時代の戦場で刀はあまり有効な武器ではありません。
ところが、鎧を着ていない相手に対して、剣術はものを言う。
つまり、鎧を着て戦う時代が終わったから剣術が栄えたのです。
案外、世の中はパラドックスになっていて、「武士道」 という頃はもう武士が戦争をしていないわけです。
<谷沢> その本質から言えば、武士道ではなく官僚道です。
しかし、これは悪いことではなかった。
江戸時代の武士に官僚としての訓練が十分できていたから、明治維新ですぐに近代社会をつくることができたのですから。
シナや朝鮮の官僚は庶民からピンハネするのは 「当然だ」 と考え、日本だけは 「働かないでおってすまん」 と考えた。
そして、百姓から余計な収奪はしないという良き官僚、質の良い官僚になったわけです。
3月31日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影