「司馬遼太郎が考えたこと 1 エッセイ1953,10~1961,10」
司馬遼太郎 (しば りょうたろう 1923~1996)
株式会社 新潮社 平成17年1月発行・より
僧兵というのが日本史に活躍するのは、主として平安期の末から鎌倉時代にかけてである。
平安末期の政情不安と文化の退廃(たいはい)は、京の貴族を青い顔の厭世(えんせい)主義者にした。
人の世をウタカタとみた鴨長明(かものちょうめい)の厭世随筆が読書人のあいだでベストセラーになったのもこの時代であり、天皇、公卿(くぎょう)は、なにか事があればすぐ世をはかなんで、出家(しゅっけ)遁世(とんせい)した。
人の心が、衰弱しきっていた。
かれらは、人生の困難にうち勝とうとせず、仏いじりすることで逃避した。
大正時代に 「世紀末」 ということばが流行した。
デカダンスの代名詞になったが、平安末期ではカフェへ行くこともできない。かれらはカフェのかわりに来世へ行こうとした。
浄土を欣求(ごんぐ)した。
この風潮にこたえたのが、叡山(えいざん)、高野山、興福寺といった当時の教団である。
かれらはさかんに 「極楽浄土」 を貴族に売った。
「極楽に行きたければ、仏道に帰依(きえ)せよ。帰依は、まずカタチであらわすがよい」(『慈海日記』)
カタチとは、土地、財宝である。土地を寺に寄進すれば極楽にゆけるという、釈迦(しゃか)でも首をかしげるような思想が流行して、貴族はあらそって土地を叡山はじめ諸国諸大寺に寄進した。極楽を買おうとした。
叡山、高野山、興福寺などは、たちまち日本有数の大領主になった。
この土地をたれがまもるか。
いまの地主なら警察がももってくれるからよいが、当時の中央政権には、警察力といえるほどのものがなかった。
やむなく私兵を雇(やと)わねばならなかった。
僧兵とは、この傭兵(ようへい)部隊のことである。僧とはいうが、僧ではなく、ありようは、あぶれ者のことだ。
百姓の次男、三男が、食えなくなれば、叡山にのぼる。
頭をまるめ、一本歯の下駄(げた)をはき、ナギナタをもてば、それだけで、あす食う米の心配はない。
義経の家来武蔵坊(むさしぼう)弁慶も、そのうちの一人であった。
伝説では、かれは熊野(くまの)別当家の子という筋目のある素性になっているが、当時の大富豪熊野別当家の出が、まさか山法師ふぜいにはなるまい。どうせ、名もなき者の子で食いつめて叡山の傭兵になったのであろう。
戦国時代に入ると、叡山、園城寺(おんじょうじ)、興福寺、高野山といった教団は衰弱した。極楽を売っても、買うものがいなくなったのだ。
人の心はたぎっている。
槍(やり)ひと筋の功名で、うまくゆけば大名のもなれるという実力主義の世の中では、宗教ははやらない。
来世の極楽よりも、現世の極楽が、自分の腕一本でつくりあげることができるからだ。
諸国には、戦国大名というあたらしい武装集団が勃興(ぼっこう)し、かれらは、なによりもまっさきに公卿、寺院の土地を押領(おうりょう)した。
寺院は、衰弱した。
もはや、僧兵師団をやしなう財力もなく、残存する僧兵も、その実戦能力の点では、合戦にあけくれている新興大名の敵ではなかった。
織田信長は元亀(げんき)二年、叡山に攻めのぼった。
理由は、叡山が、その檀家(だんか)であり、信長の敵である近江(おうみ)の浅井、越前(えちぜん)の朝倉とひそかに通じていることを、信長が知ったからだ。
「堂塔を焼き、僧俗をことごとく殺せ」
日本最初の無神論者であった信長は、この中世の亡霊のような叡山に大鉄槌(てっつい)を加えるのに、なんのためらいもなかった。
僧兵師団は敵をむかえて立ちあがった。が、すでにかれらには、王朝のころのような実力はなかった。
当時、信長の兵団は、鉄砲の数からしても日本では最新鋭の兵団であったし、それに、部下は歴戦の勇者である。
この兵団の前に叡山の僧兵師団は、
サイパンにおける日本兵のごとく潰(つい)えた。
(昭和36年7月)
3月31日 光が丘公園付近(東京・練馬)にて撮影