文学に恋愛がある日本・無い中国 その1 | 人差し指のブログ

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「 半日の客 一夜の友  丸谷才一・山崎正和   対談11選 

丸谷才一(まるや さいいち) / 山崎正和(やまざき まさかず)

株式会社 文藝春秋 平成7年12月発行・より

 
 
 
<丸谷>   トルバドゥールの話が出ましたけれど、
         「恋愛は十二世紀の発明だ」 というピレンヌの名科白があるでしょう。
 
ところが、中国人というのはいまでもまだ恋愛を発明していないんですね。
発明もしなければ、輸入もしなかった。
 
 
つまり、現代中国の小説家を一人挙げろと言われれば、ほとんどの人が魯迅を挙げると思うけれど、魯迅には恋愛小説が一編もないんです。
 
 
代表作 『阿Q正伝』 のなかで、阿Qという村の変わり者は女に言い寄ったせいでみんなに爪はじきされる。
 
 
そういう恋愛を書かない小説家というのは、日本人から考えるとおかしいし、西洋から見てもおかしい。
 
 
とにかく中国というのは文学の中に恋愛が存在しない国なんですね。
 
 
 
<山崎>   『金瓶梅』 のようなエロティシズムはあるのになあ。
 
         人間の肉体に根ざしていて、なおかつ肉体の喜びそのものではない、何か余分のものを含む愛という理念はないんですね。
 
 
 
<丸谷>   ロマンティック・ラヴというようなものはないんです。
 
        その結果、かもしれないな、
        色事一般を口にするのをひどく嫌う。
(略)
 
 
<山崎>   そうですね。でも丸谷さんにぜひ伺いたいんだけれど、
         なぜ日本人というのはあんなに古く 『万葉集』 のころから男女の愛にばかり感心があるんですか。
 
 
 
<丸谷>   アハハハ。ほかの道徳律というか、イデオロギーがなかったからじゃないですか。あったのは豊穣信仰、呪術的信仰でした。
 
 
つまり人間の男女が愛し合うと子供が生まれる、その影響を受けて稲や麦も愛し合って五穀豊穣になる。
 
鳥や魚も牛も馬もたくさん交尾してたくさん獲れるようになる、ということがまず根本にある。
 
それをうんと洗練させていくと、色好みということになるんでしょう。
 
 
 
<山崎>    なるほど、明快ですね。
 
 
<丸谷>    何しろ通い婚でしたからね。
          あれは結婚と恋愛の中間形態みたいなものでしょう。
 
しょっちゅう愛情をたしかめあう必要があるし、ちょっと男が来なくなれば捨てられたと思う。
そこへまたほかの男が通うし、大変なんだなあ、あれは(笑)。
 
 
どうしたって男女の仲ばかりが関心事になりますよ。
それに、中国の場合は、色事を妨げる戒律があったけれど、日本にはなかったんです。
 
 
本居宣長が中国は心の邪悪な人間がいっぱいいるから儒教のような教えは必要だけれども、心の邪悪な人のいない神国日本には無用である、と言ってます。
 
僕は、あの邪悪、邪悪でないというのは婉曲表現だと思うんですよ。
 
 
 
張競さんの 『恋の中国文明史』 に書いてあるけれど、儒教本来の、媒酌人を立てて父母の命じた通りの相手と結婚するというのは、非常に古い時代には大変進歩的な制度だったというんですね。
 
 
恋ってものを許さないのは何という古めかしい固陋な制度かと我々は思いがちだけれど、近親結婚を禁じるためには、あれが一番いい制度だっていうわけです。
 
たしかに大昔はそうだったかもしれません。
 
 
そのことを宣長は分かっていて、つまり、中国人は性的に乱脈であり、日本人はそうではないということを婉曲表現で、邪悪、邪悪でないという言い方をしたんじゃないでしょうか。
                  ~亡ぶ国 興る国~「文藝春秋」平成七年二月号
 
 
 
 
その2は翌日です(人差し指)
 
 
 
ソメイヨシノはだいぶ散ってました。光が丘公園(東京・練馬)にて
 3月31日撮影