殿様が自分の藩を売る | 人差し指のブログ

人差し指のブログ

パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

 

「 山本七平全対話 1 日本学入門 山本七平他 」

山本七平(やまもと しちへい 1921~1991)

株式会社 学習研究社 1984年11月発行・より

 

                     イリュージョンを排す     深田祐介 

                                     1982,10.16-29「週刊宝石」(改題)

 

 

 

 

<山本>     韓国の友人にいろいろ話しを聞きまして、

           どこが違ってきたか、たいへんおもしろいのは、日本は                           封建制だったけど、韓国はそうじゃなかった。

 

 

だから、地方長官なんか五年ぐらいしかいないわけで、その間、詩(よ)んだり、歌詠んだり、なるべく賄賂をとったりで、帰ってきちゃうというんです。

 

 

 

<深田>    なるほど、中央から派遣された中央官僚だから、

          つつがなく任期を終えればいい。

          政治も経済も関係ないわけですね。

 

 

<山本>    その韓国人が徳川時代の日本を調べて、

          つくづくおどろいたのは、三百ある藩がみな独立採算制が

                     基本なんですね。

 

 

殿様は藩を経営していかなければならない。

失敗すれば藩の”売りすえ”まで出てくるんです。

 

つまり、破産して売っちゃうことなんですよ。

 

実際、藩売っちゃた殿様がいるんですね。これは 『江戸見分二録』 という本に出てきます。

 

 

<深田>    そうですか。そりゃ知らなかった。

 

 

<山本>    養子が自由にとれるから 「公辺には養子と称し」 て

          七万石を三千金に替えた。養子が自由にとれるのは日本

          だけですね。

 

 

<深田>    そのかわり、養子がとれないと、お家断絶になっちゃう。

          取り潰しですね。

 

 

<山本>    そういうわけです。

          でも町人の息子をいきなり養子にはできませんね。

 

 

まず下っぱの侍の養子にして、そこから家老ぐらいの養子にして、そこから一門の養子に迎えて、幕府に願い出る。

 

もちろん、賄賂をつかうんでしょうけど、殿様は隠居しちゃうんですね。

つまり、町人の息子が跡を継ぐわけです。

 

 

<深田>   非常に数字に強い、財政に明るい殿様になる。 

 

 

<山本>   ええ、同時に殿様は退職金をもらうんです。

         それが三千金で、七万石の藩をそうやって売っちゃった

                    けです。

 

 

書いた人間は 「君、君たらず、臣、臣たらず」 なんて憤慨しているんです。藩士どもは、いったいどうしているんだと。

 

 

隠居したっていうけど、父子の礼もない、ってね。

 

かたっぽは買ったんですから、知っちゃいないですよ。

退職金を払ってますしね。

 

 

これが藩だとニュースになるんで、御家人だとニュースにならない。

 

 

勝海舟なんて累代の御家人みたいな顔してますけど、四代前にさかのぼると高利貸しですからね。

 

 

<深田>    高利貸しの末裔が江戸城を、いや、

          幕藩体制を売っちまったわけか。(笑)

 

 

<山本>    天才的な高利貸しで、三十万両くらい儲けたんでしょ。

          で、息子がそんな才覚ないから、生活のために御家人株

                     を買ってやろう、と。 うんといいやつをね。

 

 

それで御家人になった。勝小吉ってのは、その人の妾腹の子ですね。

妾の子だから、しょうがない、小普請(こぶしん)組の安いとこ買っておこう、というわけですよ。その子どもが勝海舟でしょ。

 

 

 

 ですからね、江戸時代ってのは、士農工商なんてタテマエがきちんとして、外面的には非常にスタティック(静的・固定的)なんですけど、内部は非常にダイナミック(動的)なんですね。

 

 

藩売りとばしちゃったとか、高利貸しが御家人株買っちゃったとか。

本物の儒教国家には、こんなのないですよ。韓国なんかもないですね。

 

 

<深田>   あくまでもタテマエとホンネが一致している。

 

 

                                           

 

 

 

『メディアの展開      情報社会学からみた 「近代」 』

加藤秀俊(かとう ひでとし 1930~)

中央公論新社2015年5月発行・より

 

 

 

 たとえば、通常の 「出自」 原理からすると、大名の序列は譜代か外様か、という大分類のあと禄高などの変数が加算されて表面的な階層ができあがる。

 

 

しかし 「達成」 をモノサシにするなら、はなしはべつである。

 

おなじ大名でも茶道、歌道などの道でその才能が抜群であれば文化人として有名になり、逆にいくら五十万石の大大名でも愚鈍で無教養な人物ならバカ殿様ということになる。

 

 

世評は容赦しない。はやいはなし、南畝じしんだって、その後半生を役人として実直につとめたという実績はあるけれども、いまでいえばノンキャリの下級官僚。「出自」 の尺度ではまったくとるに足らない小身者。

 

 

だが、学識や才能という 「達成」 を基準にしてみるとかれは 

「子どもまで知る」 有名人である。

 

 

 

その系図や門閥によって社会的地位がきまるのではなく、実力と名声がかれの地位をきめたのである。

 

 

 このへんの尺度のゆらぎがおもしろい。

「家柄」 といった伝統的尺度によって、ほぼ自動的かつ無条件に認知される尺度はたくさんある。

 

 

源平籐橘にさかのぼる系図だの幕藩体制をささえる徳川家との婚戚、主従関係などがそれにあたる。

 

 

だが、この時代になるとあらたな地位の尺度として 「財力」 というものが登場してきた。

 

 

いうまでもなく礼差その他の商人は 「大名貸し」 によって代表されるように、その金融力を誇示しはじめたのだ。

 

 

いうなれば 「政界」 とまったくちがう原理で形成された 「財界」 が出現したのである。

 

 

要するに宝暦から天明にかけてのいわゆる 「田沼時代」 というのは 「政財癒着」 が顕在化した時代だったのだ、といってもよい。

 

 

じじつ、この時代になると先祖代々という武士の 「家」 も金銭的売買の対象になっていた。

 

 

いささかのたくわえのある町人が御家人の 「株」 を買って武士階級の仲間入りすることだって可能になっていたのである。

 

 

 

 

 

 

江戸彼岸(エドヒガン)桜 3月28日 中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影