「 渋沢栄一 徳育と実業 錬金に流されず 」
渋沢栄一(しぶさわ えいいち 1841~1931)
株式会社 図書刊行会 2010年9月発行・より
維新当時の商業を顧ても、現在のような考え方はなかったし、現在のように才能を持った人は一人もいなかったと言ってよい。
商売上の組織として問屋という名目はあっても、本当の問屋ではない。
第一、国家の租税の主なものは米だった。
蠟(ろう)、砂糖、藍(あい)、塩などという品物も徴収し、幕府や諸藩がその品物を自藩の船で江戸、大坂に運んで金と換えた。
では、その海運はどうしていたかというと、ほとんどは政治の力でやっていたのである。
幕府が海運に力を注いだのは元禄から享保の時代にかけて、例の新井白石が河村瑞軒(ずいけん)を動かして奥羽の海運を東航路によるものにしたことからも明らかである。
それ以前は西海岸の通行だけであり、東海岸は船が通らないと思われていた。
さて、幕府および諸藩が江戸や大坂などの都会にこれを運搬し、その取り扱いを蔵宿(くらやど)という商人に命じ、入札にかけて商売人に売り渡すようにさせたのである。
このようにして、これを買い受けた者が小売商人に分配した。
もっともそういう方法ばかりではなく、販路は多くは前述のような方法によるものだった。
だから販売の原動力は政治にあったようなもので、細かな売買だけが民間で行われたので、民間の商業と言えば皆小売商人で、工業と言っても手内職であり、すなわち日本の商工業というものは小売商人と手内職の範囲を出ることはなかったのである。
幕府との間の役割として蔵宿とか御用達(ごようたし)などがあったが、それらは数代続く家柄で、主人は奥の座敷で一中節※① でもやっていればよいという身分である。
※① 一中節(いつちゅうぶし)◆京都の都代夫一中が創始した浄瑠璃節の一種、元禄から宝永にかけて上方で流行した。
店は番頭が一手に引き受けて生計を立て、藩のお屋敷に出入りし、盆暮れには付け届けを行い、その役人を接待して江戸の吉原でご馳走し、新町に案内するなどといったことを巧みにこなしていれば、それで業務は十分に行なえたのである。
そういう有様だったから、一般の商工業者はじつに卑下されたもので、ほとんど地位や教養のある人と同様の扱いはされなかった。
明治維新後も官尊民卑(かんそんみんぴ)の悪習が残っていて、当初、商工業を盛んにしようと先見のある政治化(ママ)がヨーロッパを真似て会社を興すのに、その頭取を政府から命じたものである。
江戸彼岸(エドヒガン)桜 3月28日 中央公園(埼玉・朝霞)にて撮影