「随筆 私本太平記」 [新装版]
吉川英治 (よしかわ えいじ 1892~1962)
株式会社六興出版 平成2年10月発行・より
だから僕は作家という立場からすると、歴史は非常に忠実に読む。
忠実に読み、尊重もする代わりに、同時に歴史というものを、何というか、軽くも見る。
馬鹿にするというては語弊があるが先ず軽く見る。
というのは歴史の総てが現実でないということと、これはやはり人が書いたものである。
歴史家は色々な場合に総勘定をしたがる、決算報告をしたがるという点からである。
例えば大坂落城から徳川の初期に移る大坂落城の次のページをめくって見ると、もう徳川幕府の時代になっている。
壇ノ浦で平家の一門が滅んだというと、もう次のページからは源氏全盛時代で、その間の移り行く世相というものは何にも書かれていない。
所が人間自体の本能を考えて見ても、人間というものはどこまでも生きようとする。
だから、壇ノ浦で平家の総ての人間が必ずしも死んでしまっている訳ではない。
大坂落城で豊臣方の凡てが没落したわけではない。
飽くまで自分達の勢力を挽回しよう、自分達の持っていた文化を再び世の中に生かそうという考えが、殊に武士階級には激しい。
だから壇ノ浦の次が直ぐ源氏時代になったり、大坂落城の次が直ぐ徳川幕府に入るということは非常に不自然で、ここに大きな余白が僕等作家にとって最も面白い所なのである。
所が歴史家はここは厄介だから口を拭ってしまう。
又実際厄介でもある。然しそこが人類の文化史に於いて、最も複雑である、又最も面白い所ではあるまいか。
これがわれわれ作家から見ると、歴史家に対して最も大きな不服でもあり、或意味から有難いわけでもある。
詰りそういったような要所要所の余白に対して、僕等は必ず零細な埋もれたものを拾い上げて、ここに僕等だけの世界を作り上げて行くのである。
3月28日 朝霞市内(埼玉)にて撮影