『 「宗教とオカルト」 の時代を生きる智恵 』
谷沢永一(たにざわ えいいち) / 渡部昇一(わたなべしょういち)
PHP研究所 2003年7月発行・より
<渡部> これも余計な話になりますが、
秀頼に勝つ手はあったと思うのです。
たとえば、大坂冬の陣で妥協しなければ、家康のほうが崩れたはずです。
真田丸で徳川方が二千人ぐらい死んでいますが、
あれが京都あたりでは二万人死んだことになっている。
こういう情報が豊臣恩顧の大名に知れ渡ると、徳川側から離脱する者が出るかもしれない。
しかも、二年頑張っていれば、家康は死ぬ。
頑張るつまりなら、大阪城を二年守り通すことは無理ではなかったでしょう。
<谷沢> それを女どもが絶対に我慢できなかったんです。
もう少し時代を遡ると、関ヶ原へ秀頼を出すべきでした。
関ヶ原の戦場に秀頼が出てきて、千成瓢箪(せんなりびょうたん)の馬印を高々と掲げたら、豊臣恩顧の大名は攻められない。
福島正則などは絶対に動けなくなります。
石田三成は決定的に有利になったはずです。
では、なぜそうしなかったのか。
淀君が反対したからです。秀頼を引っ張り出すためには、淀君を殺さなければならない。
三成は有無を言わさず淀君を殺して秀頼を引っ張り出すべきでした。
そこでもう一人、からんでくるのが秀吉の正室・北政所(きたのまんどころ)。
とにかく、関ヶ原の戦いは北政所が家康を勝たせたことは間違いない。
家康と北政所は関係があるという噂まで立ったわけですが、
北政所が家康に加担した理由は、淀君に対する嫉妬です。
<渡部> 豊臣家を滅ぼしたのは、女です。
平家を滅ぼしたのも女でした。
池禅尼(いけのぜんに)が源頼朝の処刑に反対して首を切らせなかった。
あのときに頼朝を殺していれば、平家は安泰でした。
雌鶏がコケコッコーと鳴くとダメだというのは、武家のいちばんの教訓です。
3月28日 朝霞市内(埼玉)にて撮影